トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > その他 > ウーマン・ウェジー  > 杉田水脈「LGBT支援の必要ない」が自民党の総意である可能性
【wezzy】

杉田水脈「LGBT支援の必要ない」が自民党の総意である可能性

 先日Wezzyでも取り上げたが(リンク)、自由民主党の杉田水脈衆議院議員が「新潮45」(新潮社)2018年8月号に寄稿した「「LGBT」支援の度が過ぎる」というタイトルのコラムのなかで、「子供をつくらないLGBTには『生産性』がないので、行政が支援する必要はない」と主張し、大きな波紋を呼んでいる。

 LGBTに対する強い差別感情をあらわにし、さらに、ナチス・ドイツにも似た優生思想を振りかざす杉田水脈議員の発言には多く批判が上がっている。政治家としてあり得ないこの発言には、自民党内でなんらかの処分や注意喚起があってしかるべきだが、自民党がとった反応はむしろ、杉田議員の考えを積極的に肯定していくものであったようだ。

 7月22日、杉田水脈議員は自身のツイッターに<LGBTの理解促進を担当している先輩議員が「雑誌の記事を全部読んだら、きちんと理解しているし、党の立場も配慮して言葉も選んで書いている。言葉足らずで誤解される所はあるかもしれないけど問題ないから」と、仰ってくれました。自民党の懐の深さを感じます>と投稿した。

 また同時に、<自民党に入ってよかったなぁと思うこと。「ネットで叩かれてるけど、大丈夫?」とか「間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ」とか「杉田さんはそのままでいいからね」とか、大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけてくださること>ともツイートしており、もしも杉田議員のツイート内容が事実なのであれば、自民党としても杉田議員の言う「『生産性』のないLGBTは支援する必要はない」との考えに同意を示したことになる(両ツイートとも現在は削除されている)。

 自民党といえば、今年の6月、二階俊博幹事長が東京都内で開かれた講演で「この頃、子どもを産まないほうが幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」と述べ大問題となったのは記憶に新しい。党幹部が、そもそも何が問題なのかすら理解できていない可能性もある。

杉田水脈議員は日本にLGBT差別はないと主張するが……
 杉田議員の発言は7月18日に「新潮45」(新潮社)2018年8月号が発売されてすぐ、コラムの一部がツイッターで拡散され炎上した。その際、杉田議員は、雑誌の一部が切り取られたことにより誤解が生まれたと主張。<全文を読んでから批判してほしい>とツイートしていたが(こちらも現在は削除済み)、誤解されているどころか、全文を読むとさらにトンデモ発言のオンパレードなのであった。

 コラムの冒頭でまず、杉田議員はLGBTに関する報道の量を疑問視。朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞といった新聞を比較すると、朝日や毎日といったリベラル寄りの新聞の方がLGBTを扱った報道の量が多いことを指摘したうえで、<違和感を覚えざるをえません>と主張する。

 その<違和感>の論旨として、杉田議員は<LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか>としながら、日本は歴史的に同性愛に寛容な社会だったと述べる。

 杉田議員は、戦国武将などにあった男色の風習を念頭に置きながら<寛容な社会>としているのかもしれないが、現代においてLGBTへの差別がないかといえば、残念ながら「差別はある」。

 「週刊文春」(文藝春秋)2018年6月21日号にて、日本で初めての同性愛専門誌「薔薇族」(第二書房)を創刊した編集者の伊藤文學氏がインタビューを受けているが、そのなかで伊藤氏は、1983年に宮崎県で起きた「薔薇族」万引き事件について語っている。「薔薇族」の万引きを見つかった高校生が警備員室に連れて行かれ、親を呼び出されることになった際、親にゲイであることを知られるのを恐れるあまり、「トイレに行きたい」と言って警備員室を抜け出し、そのままビルの屋上が飛び降り自殺してしまった事件だ。伊藤氏はこの事件を振り返りながら<ゲイ雑誌を買いづらい状況が彼を殺したようなもので、心底やりきれなかったです>と語っている。

 こういった痛ましい事件が起きたのは、日本社会のなかにLGBTへの偏見や差別が根深くあり、当事者自身も、そのことを強く認識し、恐れているということの証左に他ならない。

 それは21世紀の現在でも、変わっていない。2015年には、LGBTであることを友人に暴露されたことを苦にした一橋大学大学院の学生が自殺するという事件が起きたばかりだ。

 また、当人に直接差別的な態度を示さないかたちで差別感情が浮き彫りになることもある。男同士の性愛を過激に表現したコミックやイラストで人気を博し、最近では佐藤隆太や把瑠都の出演でドラマ化された『弟の夫』(双葉社)でも知られる漫画家の田亀源五郎氏は、自著『ゲイ・カルチャーの未来へ』(Pヴァイン)のなかで以下のように綴り、日本的なLGBT差別のかたちを語っている。

<たとえばヘイターが実際にいたら、表立って闘えばいいから対処は簡単なんですよ。それより難しいのは、無自覚な偏見に囚われている層なんです。そういう人たちというのは、差別が良くないということはわかっているし、自分が差別的ではありたくないと思っている。つまり自分は差別していないという前提があるから、なおさら「それはじつは差別的なんだよ」という風に指摘されると、ものすごく抵抗するんですよ。それはもう意固地になるくらいに。私は自分の生活で、そうした例を実際によく見ています>

 こういった証言から、日本社会がLGBTに対して<寛容な社会>などでは決してないことは明らかなのだが、それにも関わらず、杉田議員は「新潮45」のコラムにおいて<「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです>としたうえで、<例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか>と綴った。

 LGBTの人々にとって同性婚が認められていないことによる不利益は数多ある。扶養控除などの税控除や社会保障も同性パートナーには認められていないし、片方が亡くなったときの相続の問題もある。また、病気で入院してしまい「家族以外は面会謝絶」といった場合に同性パートナーはどうするのかという問題もあるし、家を借りようと思った際に大家から断られてしまうといった問題もある。つまり、同性婚が認められていないという社会制度の不備によって生み出される「生きづらさ」は山のようにあるのだ。そういった状況を改善するのが政治家の仕事であり、ましてや差別を煽り立てるなどというのは政治家としての資質が問われる問題だろう。

 そして、「新潮45」のコラム上で杉田議員は、メディアによる報道が人々を惑わせていると主張する。

<マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません>

 同性愛者を<不幸な人>と断定している時点で、もうこの問題について語る資格がないのは明らかだが、杉田議員は「多様性を受け入れる」という価値観で社会をつくっていくことに反発。そういった報道に対しては<むしろ、冷静に批判してしかるべきではないのかと思います>としたうえで、このような言葉で原稿を締めた。

<「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません>

 その「普通であること」という同調圧力や強迫観念により、不当に差別され、苦しい生活を強いられている人々が現実にいることを、彼女は無視して政治を行うつもりなのだろうか。

 杉田議員の主張は、同調圧力の暴力を振りかざして、弱い立場にいる人々を痛めつけるものである。議員バッジをつけた国会議員が行って許される行為ではない。

 7月21日付日刊ゲンダイで憲法学者の小林節氏は、杉田議員は<「人権」論の本質が分かっていない>と喝破し、このように語っている。

<人間は皆、先天的に「それぞれ」に個性的な存在であるが、それをお互いに許容し合う温かい心こそが人権論の土台である。

 だから、自分とは異質な者を内心では見下しておきながら、それを単なる「区別」だと言い張り、その上で「優先順位が低い」という見下し発言をして恥じない者が権力側にいては、いけないのである>

 杉田議員は<全文を読んでから批判してほしい>と語っていたが、全文を読んではっきりしたのは、杉田議員がLGBTを差別し、迫害しようとしているということだ。もしも、それが言葉足らずで誤解されていると言うのなら、自らが伝えたかったことを改めて説明するべきだろう。

(倉野尾 実)

最終更新:2018/07/24 07:15
ページ上部へ戻る

配給映画