長野県民なら誰もが知ってる、もう一つの食卓……「みんなのテンホウ」は胃袋の桃源郷だった!
#地域 #グルメ
「テンホウ」を、ご存じだろうか。
長野県民なら、誰もが知っている馴染みの味。でも、長野県民以外に知られることは少ない。なぜなら、現在の店舗数は32店舗。そのすべてが、長野県内にしかないからだ。
長野県では、老若男女を問わず愛され続けるローカルチェーン。いったい、なぜ「テンホウ」は、長野県の人たちに愛されるチェーンとして、定着するに至ったのか。
以前から知りたかった謎が、このたびようやく明らかになった。地元有志などによって開催されている公開講座「諏訪力講座」が「テンホウに見る諏訪力」と題し、テンホウ・フーズ代表取締役社長の大石壮太郎氏を招いて、講座を開催することになったのだ。
「テンホウ」の歴史や「謎」を知る、またとない機会。筆者はさっそく、諏訪へと向かった。
まず、改めて驚いたのは「テンホウ」の人気。
講座の前に、まずは店にも行かねばと訪れたのは、現状の最古の店舗である諏訪市の城南店(もともとの2号店)。その日は日曜日とはいえ、まだ昼前にもかかわらず、すでに駐車場は満車だったのである。
少し待ってから入店するが、客はひっきりなしにやってくる。一人客やカップル、家族連れ……。掛け値なしに、老若男女がやってくるのである。
そして、初めて来た人なら驚くのは、メニューと値段である。餃子は280円。醤油ラーメン390円。ソースカツ丼670円。中華料理主体のチェーンかと思いきや、さば串カツもある。さらに、一部の店舗ではアップルパイまであるという。
いったい、豊富なメニューと値段の安さは、どうして生まれたのか……。
「諏訪力講座」で、まず大石氏は「テンホウ」の歴史から語り始めた。
大石氏の祖父母が「テンホウ」の源流である「天宝 鶴の湯 餃子菜館」を始めたのは1956年のことだ。
その名前の通り、もともと祖父母は戦前、諏訪に移り住み、上諏訪の温泉街で「天宝 鶴の湯」という名前の旅館を営んでいた。
今でも上諏訪には多くの温泉宿があるが、戦前は現在とは異なり、もっと内陸部に温泉街が広がっていた。その中にあった「天宝 鶴の湯」も大いに繁盛していた。
ところが戦後になると、温泉街は諏訪湖畔へと移っていき、もともとの温泉街にも陰りが見えてくる。
そんな時であった。大石氏の祖母である百代(ももよ)おばあちゃんは、たまたま東京に出かけたその時に、偶然、歌舞伎町にあった「餃子会館」という店で食べた餃子で閃いたのだ。
「この作り方を教えてほしい」
そう店の人に頼んでみたが、おいそれと教えてもらえるはずがない。何度も店に通った百代おばあちゃんは、ついに無給で3カ月あまり店で働いたのだという。
その時、百代おばあちゃんは、すでに50歳を過ぎていた。まだ戦後間もない時期だから、かなりの高齢である。そこまでの情熱のおかげか、味を伝授された百代おばあちゃんは諏訪に戻り、旅館の一角で餃子を売り始めたのである。
それは次第に評判になり、広まっていった。
その後を継いだ、大石氏の父である孝三郎氏は1973年に店舗を株式会社化。まだ2店舗しかない時点でセントラルキッチンを建設したのである。まだ、日本におけるファミリーレストランの先駆けである「すかいらーく」が登場して間もない時代(1号店は1970年)。孝三郎氏は、幾度も東京に出かけては「すかいらーく」を訪れていたという。ファミリーレストランという新しい業態は、必ず成長する。そのことを孝三郎氏は確かに見抜いていたのである。
と、このままなら一企業の成功物語である。
でも「テンホウ」は、そうではなかったからこそ、長野県民に愛される味となった。
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