ドイツ国民は強制収容所の惨劇を知らなかった!? ナチス高官元女性秘書の告白『ゲッベルスと私』
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ヒトラーの右腕、プロパガンダの天才、多くの女優と浮名を流したロマンティスト……。ナチスドイツの初代宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスをめぐる逸話はとても多い。ナチス軍服のファッション性を重視したこと、周囲には「博士」と呼ばせていたことなど、独自の美意識の持ち主であったことでも知られる。博識だったゲッベルスがメディアを統制し、イメージ戦略を展開したことで、ナチス総統アドルフ・ヒトラーはその人気を極めた。オーストリア映画『ゲッベルスと私』(原題『A GERMAN LIFE』)は、ゲッベルスの秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼルへのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリーだ。撮影時103歳だったポムゼルが“生き証人”としてナチス政権下のドイツの内情を語る興味深い内容となっている。
「プロパガンダは相手に気づかれないよう、その意図を巧妙に隠してやる」「教養の低い大衆に向けてやるべき」など、ゲッベルスが残した言葉の数々は、現代の政治とメディアの関係性に充分通じるものだ。戦時中、ゲッベルスのオフィスに通っていたポムゼルは、終戦から69年間ずっと沈黙を守ってきたが、103歳にして初めてインタビューに答える。豊かな銀髪はウィッグかもしれないが、カメラに向かって毅然とした態度でしゃべり続けるポムゼルの記憶は極めて鮮明である。彼女の中では、戦時中の体験はほんの数年前の出来事であるかのようだ。
1911年にベルリンで生まれたポムゼルの回顧は、彼女の少女時代、第一次世界大戦時から始まる。ずっと不在だった父親が戦場から帰ってきた。知らない大人の男が家にいることに、幼いポムゼルは驚いたという。当時は子どもに対する躾が厳しく、大人に口答えするとすぐに体罰を受ける時代だった。中学卒業後のポムゼルはタイピストとなるが、景気は悪く、午前中はユダヤ人が経営する保険代理店で働き、午後はナチ党員の戦争体験を口述筆記する仕事を掛け持ちすることになる。よりよい職場を求めて、ポムゼルは22歳のときにナチ党に入党する。就職に有利になると聞いたからだ。なけなしの大金を払ってナチ党員となったポムゼルは、念願叶ってラジオ局での職を得る。1936年にはベルリン五輪が開催され、「街は活気に溢れていた。当時のベルリンは美しい街だった」とポムゼルは自身の青春期と重なるナチスドイツ黄金時代を振り返る。
ポムゼルの幸運は続く。ラジオ局での秘書としての勤勉さを買われた彼女は、ゲッベルス宣伝大臣の秘書として働くことになる。給料はぐんと上がり、周りは親切なエリートばかりで居心地がよかった。普段のゲッベルスはとても温厚で、洗練された紳士だった。昼休みになると、ゲッベルスの子どもたちが子煩悩だった父親を迎えにオフィスに現われたことを、ポムゼルは懐かしむ。タイプライターを子どもたちに貸して、遊ばせたこともあったそうだ。
だが、幸せなポムゼルとは対照的な運命を歩む女性もいた。ポムゼルの親友だったユダヤ人のエヴァだ。明るく、快活な性格のエヴァは、ポムゼルが勤めるラジオ局にときどき遊びに訪れ、男性局員たちの人気者となっていた。しかし、ナチスの隆盛と反比例して、ユダヤ人だったエヴァは就職もままならず、生活に貧するようになっていく。ポムゼルはそんな彼女に手を差し伸べたと弁明する。みんなでコーヒーやビールを飲みに行ったときは、彼女の分をみんなで支払ったと。しばらくして、バスの中でばったり逢ったエヴァから「あなたの同僚を訪ねてもいいかしら」と頼まれるが、すでに宣伝省で働くようになっていたポムゼルは「もう職場には来ないで」と断る。ポムゼルの新しい勤務先を知って、エヴァも理解した。音信不通となったエヴァは、その後強制収容所へ送られることになる。
ポムゼルは断言する。「若い人から、もし自分があの時代にいたら、ユダヤ人を助けたはずだと言われる。でも、きっと彼らも同じことをしていたわ。国中がガラスのドームに閉じ込められていたようだった。私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ」。彼女の言葉を証明するように、ナチスドイツ時代の記録映像がインタビューの合間に挿入される。街はナチス式敬礼をする市民たちの歓声で溢れ返り、反論の声を挙げても簡単に掻き消されてしまいそうだ。
ポムゼルは強制収容所で何が起きていたのか、戦時中はまるで知らなかったと主張する。ユダヤ人が街から姿を消したが、それは地方へ集団移住しただけなのだと信じていた。ポムゼルがまったくの嘘をついているようには見えない。ただ、ポムゼルをはじめとする豊かな生活を享受していたドイツ人は、真実を知ろうとしなかっただけなのだ。不快なこと、自分たちに都合の悪いことは目を閉じ、耳を塞いで、やり過ごそうとした。
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