“ポスト奥崎謙三”を探し続けた原一男監督の24年ぶりのドキュメンタリー『ニッポン国VS泉南石綿村』
#映画 #パンドラ映画館
公開を直前に控えた原監督に会う機会があった。ドキュメンタリー監督として、奥崎謙三という存在は最高の被写体であったことを原監督は認め、奥崎からは『ゆきゆきて、神軍』の続編を撮ってほしいと懇願されていたことを話してくれた。
原一男「奥崎さんのような人物は他にはいないか、ずいぶん探しました。一時期は金嬉老はどうだろうと考え、金嬉老のお母さんに会いに行ったりもしました。でも、金嬉老でドキュメンタリー映画を撮ろうという高揚感にまでは至らなかったんです。奥崎さんからは死ぬ間際まで、『神軍』の続きを撮ってほしいと頼まれましたが、僕はそれを断りました。もし、『神軍2』を撮っていたら、奥崎さんは殺人未遂だけでは済まず、さらに2人3人と襲っていたでしょう。ドキュメンタリーは世間の倫理から外れた世界を描くこともありますが、あまりにも外れすぎると観る側が引いてしまい、表現力を失速させてしまう。それで、『神軍2』は断ったんです。奥崎さんは僕への恨みつらみを持ってあの世へ逝きました。奥崎さんのようなキャラクターはもうどこにも存在しない。そのことに気づくのに、ずいぶん時間を要しました。そんなときに出会ったのが、国を相手に訴訟を起こした泉南の人たちだったんです。奥崎さんとは180度違い、節度を守る善良な人たちでした。これまでの方法論を一度棄て、ドキュメンタリーの基本に立ち返ったのが『泉南石綿村』なんです」
原監督にとって、ドキュメンタリーの基本=取材対象への愛を持って、時間を惜しむことなく関係を築き、向き合っていくこと(by大島渚)だった。原監督は1945年山口県宇部市生まれだ。炭坑&セメント業で栄えた労働者の町で生まれ育った原監督の、石綿工場で長年働いてきた人々へのシンパシーが『泉南石綿村』からは伝わってくる。さらに言えば、終戦の年に生まれた原監督が、戦後の日本史をドキュメンタリーという形で総括しようとしているようにも感じられる。
原一男「僕もそこに含まれるわけですが、庶民という日本の最下層の人たちにとって、戦後の民主主義がどのように結実化、結肉化しているのかに向き合ってみたかったんです。どんな作品に仕上がるのか見当もつかずに撮影を始めたのですが、この作品をこのタイミングで撮れたことは自分にとっても非常によかった。ドキュメンタリー監督としてぐるりと1周して、2周目のスタートをこの作品で切ることができたように思えるんです。さて2周目はどうすると考えているところです」
最後にもうひとつ。原監督の『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』は原監督にとって父親世代にあたる奥崎謙三、井上光晴を取材対象にしていた。私生児として生まれた原監督は、戦争で出征したまま消息の途絶えた父親の記憶をいっさい持っていない。これまでの原監督のカメラは、父性的な存在を追い求めているような印象を受けたが……。
原一男「確かに僕は父性コンプレックスというものをずっと持っていました。父親の名前も、素性も知らないまま、この年齢になりました。2本だけですが、今村昌平監督の現場に付いたこともあります。父親世代の人を見ると、擦り寄ってしまいたくなる衝動があるんです(笑)。父性的な人に教え導いてほしいという想いがあるんでしょうね。あの奥崎さんに対してさえ、父性的な親近感を瞬間的に感じることがありましたから。この映画を完成させたことで、父性コンプレックスから解き放たれたか? それはどうでしょう。本当に解き放たれたのかどうかは、長い時間を経ないと分からないでしょうね。でも、『泉南石綿村』を撮り終えたことで、新しいスタート地点に立てたという実感はあります。『神軍』が公開されて昭和が終わり、『泉南石綿村』が完成して平成が終わろうとしている。因縁めいたものを感じますね」
最高の被写体だった奥崎謙三がこの世を去り、父性を感じさせる映画監督も稀になった。時代は変わった。それでも、まだ昭和時代から残された問題は少なくない。原監督が『泉南石綿村』の撮影よりも前から取材を始めていた水俣病問題もそのひとつだ。カメラを手にした原監督の闘いは、これから2周目に突入しようとしている
(文=長野辰次)
『ニッポン国VS泉南石綿村』
監督・撮影/原一男 製作・構成/小林佐智子
編集/秦岳志 整音/小川武 音楽/柳下美恵 制作/島野千尋
製作・配給/疾走プロダクション 3月10日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
(c)疾走プロダクション
http://docudocu.jp/ishiwata
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