『快楽ヒストリエ』マンガ家・火鳥《楽しい日々》へのささやかな恩返し
#歴史 #インタビュー
中身がない憧れですから、ぜんぜん、うまいわけじゃなかったです。でも、運動は苦手で内遊びが好きでした。いつも姉の後ろに隠れていたせいなのかな。とにかく内向的でした。小学校1年の通知箋に、先生がこう書いていたのを覚えています。「グラウンドに遊びにいかないの? と声をかけても、ボール遊びは嫌いなんだと寂しそうに言うので少し心配です」。
そんな子どもだったから、両親は心配したんでしょうね。苦手なものも少しくらいはできるようにって、子ども向けのスポーツクラブや水泳、それに、音楽の授業でいつも苦労していたので、ピアノ教室にも通わせてくれました。水泳は嫌だったな。習い始めるのが遅かったから、周りの子より年上だったのに、なかなか上達しなくて……。
でも、曲がりなりにも泳げるようになったから、両親には感謝しています。
ピアノの先生には淡い恋心を抱いていて、絵を描いてプレゼントした記憶があります。先生が結婚しているって知った時は、ショックでしたね……。6年生まで習いましたが、ピアノそのものには最後まで興味が湧きませんでした。
マンガは幼稚園ぐらいから読んでいたのかな。ぼくは「ボンボン」(コミックボンボン、講談社)派だったんだけど、祖父が間違えて買ってくることもあって「コロコロ」(月刊コロコロコミック、小学館)も読んでいた。姉が買っていた「なかよし」や「りぼん」も読んでましたね。姉の後ろでアニメの『美少女戦士セーラームーン』(講談社)も……。本当は見たかったけど、女の子のものを見るのが恥ずかしいじゃないですか。だから、チラチラと。うん、最初に興奮したのは、やっぱりセーラームーンだったんじゃないかな。
でもね、本当に自分の根になっているものを選ぶとしたら、小学2年生くらいから買い始めた「月刊少年ガンガン」(スクウェア・エニックス)だと思います。
それこそ、すべてのページを暗誦できるくらいに読んでいましたね。『魔法陣グルグル』とか『南国少年パプワくん』、そうそう、梶原あや先生が描いていた『けんけん猫間軒』は特に好きで……自分の描く猫みたいな小さなキャラクターも、あのマンガがあったからなんですよね。
その頃、自分の内面にも変化がありました。転機と言っていいかもしれない。
小学校で、札幌雪祭りの時に、市が主催する絵のコンクールがあったんです。それで、特賞をもらったんです。表彰された時は、ちょっとうれしいなと思ったくらい……でも、クラスメイトたちが話しかけてくるようになって。ぼくの絵を見てくれるんです。それまで、絵というのは自分の世界に閉じこもるための道具だと思っていたんですよ。周りは自分と違うから、一人で自分の世界で遊ぶ。ところが、まったく正反対の力があると気付かされたんです。自分の描いている絵を、もし外に向かって見せたら、人とつながることができるんだと。それからですね、マンガ家という職業を考えたのは。
* * *
「小学校の頃は、一度はマンガ家になりたいと思ったことがある」街を歩いて10人に声をかければ、8人か9人くらいは、そう語る。それくらいに凡庸。だけれども、その夢を叶えられる人は、一握りにも満たない。だから、人は興味を持つ。なぜ、この人は夢を維持し叶えることができたのだろうか、と。
同人誌即売会があるのでバイトを休みたい。そう頼むと、店長は言うんです。
Q「どんなマンガ描いてるの?」
A「女の子がパンツモリモリ食べるマンガですよ」
……なんて、正直に答えられるわけが無い。
(「東方裏日誌 裏表紙」2008年10月7日pixivに投稿)
火鳥 これ、自分で口に出していうと恥ずかしいんですけど……ぼくは、マンガ家になれないと思ったことがないんですよ。悪い意味でも、なれないという可能性を考えたことがなかった。だから、何も具体的なことをしないままに大人になっちゃったんです。
高校を卒業するくらいに、やっと気づいたんです。もしかしたら、マンガ家になれない可能性があるんじゃないか……。
高校の時は、絵は描いていたけれども、ストーリーものは、まったく描いていなかったんです。厨二病というか……設定ばかりつくっては満足する、作品を完成させられないパターンにハマっていました。というのも、それを仲間同士でやるのが楽しくて。
そう、高校に入学してから、放送部に入ったんです。そこは、オタクの集まりで……クラスの仲間4人くらいで集まっていたんです。濃いヤツらが集まると、観る作品の幅も広がりますよね。
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