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【wezzy】

紗栄子「私に普通の女性の幸せは訪れない」発言…「普通」とは何か? 映画『月と雷』に見る、「普通」の獲得

 いろいろな女性ファッション誌にモデルとして登場する一方で、ネットニュースでは「嫌われ者」と「女子の憧れ」の両方の扱いをされている紗栄子(30)さんが、10月13日に放送されたトークバラエティ番組『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)に出演して、「私に普通の女性の幸せは訪れない」と発言していました。

 彼女は「他人の(男性の)お金で豪遊している」という印象を持たれているけれど、実際はビジネスをして自分で大金を稼いでいる、という話の流れで出た発言でした。「普通の女性の幸せは訪れないと思うから、自分で稼ぐ」という意味なのでしょうか。ここで紗栄子さんが想定されている「普通の女性の幸せ」とは、おそらく、優しくて頼り甲斐のある旦那様(と可愛い子供)に恵まれ、手厚い庇護のもとで安定した家庭生活を送ること――なのだと思います。離婚して自力で稼ぐことは「普通の女性の幸せ」ではない、と。

 でも「普通の女性の幸せ」を、ただひとつに絞ることなど到底出来ません。「普通」とは何か? ひとびとの生活の実態は多様です。誰も「これぞ普通」を定義することは、不可能ではないでしょうか。10月7日から公開中の映画『月と雷』は、まさにその「普通」に捉われ、「普通」に生きられないひとびとのストーリーです。

紗栄子「私に普通の女性の幸せは訪れない」発言…「普通」とは何か? 映画『月と雷』に見る、「普通」の獲得の画像2
映画『月と雷』公式webサイトより
 原作は角田光代さんの小説。主人公の泰子(初音映莉子)は、普通に生きたいのに普通に生きられない、という女性です。泰子の幼少期、泰子の父(村上淳)がシングルマザーの直子(草刈民代)と浮気をし、泰子の実母は出奔してしまいました。家には、直子とその息子・智(さとる/高良健吾)が居着き、まだ幼かった泰子は彼らとの暮らしを無邪気に楽しみます。直子が子供の面倒を見たり叱ったりしないので、泰子と智は好き放題に遊べたのです。

 しかしある日、直子と智はいなくなりました。父と二人、家に残された泰子には、もう、彼らが来る前の「普通」はありません。実母は帰らず、父は新しく身の回りの世話をしてくれる女性を迎えますが彼女は自殺、父も酒に溺れて亡くなりました。父と母のいる家庭で、穏やかに育つことが「普通の子供時代」だとしたら、泰子はその「普通」を失ったまま大人になったわけですね。

 父が遺した家にひとり暮らし、近所のスーパーにてレジ打ちのパートをしている泰子は、「普通」の友人がいる様子もありません。誰にも心を許していなさそうで、自分にも他人にも希望や期待を抱けない。過去から逃れ「普通」にありつきたい気持ちもある、けれど「普通」を甘受することに対する戸惑いや自信のなさも持ち合わせています。どういうわけか婚約者はいるのですが、彼女はこの男性にも心を許していません。

 そんな泰子の前に20年ぶりにふらりと姿を現したのが、大人になった智です(原作では30年ぶり)。智の母の直子は、定職も経済力も生活能力もなく子供を養育する能力もない女性ですが、いつも親切な誰かが助けてくれて母子共々食事や寝床の面倒を見てくれました。しかし定住して決まった相手と決まった暮らしを繰り返すことができない性分の持ち主でもあり、そんな直子を母に持った智は、直子と共にあちこち転々とする子供時代を過ごしました。泰子同様、「普通」とは無縁の流浪の少年だったというわけです。そして大人になった智も、女の子との恋愛関係が持続しないなどやっぱり「普通」に生活することができずにいます。

 20年ぶりに智と再会した泰子はその夜、家に智が泊まることを許し、自分から誘う形でセックスしました。それからというもの泰子は、これまでずっと自分の中にくすぶっていた怒りや憤りや疑問を、次々と表出していきます。自分から「普通」を奪った直子に、裕福に暮らす父親違いの妹に、ふらりと現れてまたいなくなるであろう智に感情をぶつける泰子が、自分にはどうすることもできなかった過去の経験に縛られたままでいることが、ありありと伝わってきます。

 縛られているといえば智もまた同様で、大人になり直子と別々に暮らしていても、直子が男の元からいなくなったと報せを受けるや否や探しに向かいます。一見、どこにも属さず縛られず、自由と表裏一体のだらしない生活をしているかのようでいて、過去や親の呪縛から逃れられないアラサー男女である泰子と智の姿。原作小説も映画もフィクションですから、観客として「いやいや別に過去とか親とか捨てたっていいし逃げたっていいのに」ともどかしさを感じますが、けれど敢えて距離をとらずに鑑賞してみると、うっすら共感も覚えます。だって実際、すっぱり忘れるのも縁を切るのも簡単じゃないと思うから。

 「“普通”にこだわらなくたって、自分らしく生きればいい」なんて綺麗ごとは通用しません。「普通に捉われないで」なんて凡庸なメッセージを送らない代わりに、「普通でない」ことで他人に取り返しのつかない傷を与え、とんでもない迷惑をかける可能性があることまで、『月と雷』は示唆します。それでいて「普通でいられない人」を糾弾するでもなく、静観し、突き放すのです。

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 かつて自分から「普通」を奪った上にどこかへ行ってしまった直子に、泰子は「直子さんは気ままに出ていったんだろうけど、置いてかれた人のそのあとに何が起こるかなんて考えたことないでしょ」と投げかけます。どこかに定住して定職につき日常を送ることが「普通」だとするならば、その「普通」の生き方ができず、あちこちに居着いては出ていくことを繰り返してきた直子は、泰子に限らずこれまで関わった相手から「普通」を奪い続けていたのかもしれないし、とことん傷つけてきたかもしれないわけです。

 一緒に暮らすというのは大抵の人にとって、大きな意味を持つ行動です。「親しい間柄になった」ことであり、そのような相手が自分の目の前から突然いなくなるというのは大きな喪失体験で、泰子と父親は、直子の登場と失踪によって激しく心乱されました。直子の「普通」じゃない生き方が、関わる人を傷つけるという「迷惑」な側面を持っていることは、否定できません。規範と節度の狭間で、みんなバランスをとって器用に生きられたらいいのに。

 そして、自分から「普通」を奪った相手である智および直子と再び関わることが、多少なりとも泰子の心を解放させたのですから、皮肉な話です。泰子は智の子を妊娠しましたが、女にとって妊娠と出産・育児は「普通」の枠内に置かれているアクションです。ではこれまで「普通」を希求してきた泰子がこの先「普通」に生きていけるのか、お腹の子に「普通」を与えてやれるのかというと、それはきっとまた別問題なのでしょう。そもそも泰子が望む「普通」は、生育環境や生活条件のことではないのだと思います。人間を当たり前に信頼できるかどうか、喪失感に怯えずにいられるかどうか、つまり彼女の心の内側にそうした「普通」の安心が欲しいということだったのではないでしょうか。とすれば、変えることの出来ない過去ではなく、これからの未来次第で彼女が、彼女にとって必要な「普通」を獲得することが可能だと考えることも出来ます。

 この物語の枠外、つまりこの現実社会でも同様に、自分にとって必要な「普通」を獲得できれば人は生きていけるのではないかと思います。たとえば冒頭にテレビ番組での紗栄子さんの「普通の女性の幸せ」発言を取り上げましたが、紗栄子さんは彼女にとって必要な「普通」を獲得し、そのことに納得しているように見えました。一律の共通概念としての「普通」など機能しないのだと彼女は知っているはずです。

最終更新:2017/10/17 07:15
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