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日刊サイゾー トップ > カルチャー  > 「キリスト新聞社」の目指す未来

「プリキュアにはかなわない」という現実を超えて──ラノベレーベルにも乗り出す「キリスト新聞社」の目指す未来

 キリスト教の「本場」ともいえるヨーロッパあたりを旅行すると一目瞭然だが、教会は日本の神社仏閣と同等に敷居が低い。ちょっと扉を開けて入って、礼拝の様子を覗き見しても咎められることはない。中には夜中でも開いていて自由に礼拝はできる教会もある。

 けれども、日本の教会というものは、だいたいが入りにくさに満ちている。道路に面した門は閉ざされているし、その奥にある建物の扉はもっと重くて固い。何か、覚悟を決めなくては入ることのできない雰囲気がある。

「やはり、規模の違いでしょう。四谷の聖イグナチオ教会なんかは、わりと自由に出入りできます。でも、ほかの教会は基本、何もなく入っていくと不審者になっちゃいますね」

 今までは「きっかけが、なさすぎた」と、松谷は言った。キリスト教の信仰を、簡単に学べるような本は少ない。少し興味を持って知ろうとすれば、日曜日の朝に礼拝にいかなければならない。そんな宗教で、おいそれと信者が増えるとは到底考えられないと、思った。

「今は、信者を増やすよりも、にわかのファン回りにいる人をどうやって増やすかを考えないと、コアなファンも育たないと思うんですよ」

 そんな問題意識があっても、変化しようとしない教会。教派によっては、次代の聖職者を養成する神学校すら維持することのできないところも出てきているという。そうした、変わらない教会の意識を変えさせる方法が、ゲームでありライトノベルなのだろう。

「教会だけが、教会自身で変わるのはもう無理だと諦めています。外堀である、我々メディアとか第三者が『教会にはできないけど、私には言える』という立場で刺激を与えていかないと、生き残れないのではないかと思っています」

 松谷の言葉には、まったく揺るぎがなかった。前述した通り、キリスト新聞はいわゆる「業界紙」である。ということは、業界とは常に持ちつ持たれつの関係にあるはずである。そうした専門的な媒体というものは、ネタ元であったり、購読者の属性に対しては、あまり批判をしないものだ。そんなことをしては、ネタももらえなくなってしまうし、場合によっては購読者が減る恐れもある。そんな立場の媒体のはずなのに、松谷には「こんな業界だから仕方ない」という諦観は、みじんもなかった。

 もう、このまま現状維持では目減りしていくだけで後はない。ならば、やれることをすべて試してみよう。そんな開拓精神が満ちているように思えた。つまりそれは、単に最近はマンガやアニメ、ゲームがはやっているから、そこに乗っかってサブカルチャーを利用した宣教をしようというような軽いものではないということである。

「サブカルやっても儲かるワケではありません。結果は、すぐには出ないと思っていますし」

 実は、ライトノベルレーベルの創刊だけでなく、キリスト教新聞は、今年大きな改革を実施している。これまで、通常の新聞と同じ大きさかつ、縦書きだった紙面を刷新。タブロイド判で横書きに切り替えたのだ。変更前と変更後、両方を見せてもらったが、それはまったくの別物である。変更前のものが新聞とすれば、変更後のものはフリーペーパーのようなスタイル。あまりに変わりすぎて、購読者からは「新聞が届かないのですが」と、クレームがきたほどだという。

「前から変えなきゃいけないとは思っていました。高齢化で、どんどん『読者が字が小さくて読めない』とかでやめていくばっかりだったのです。また、電子版を始めるにあたって従来のサイズは適さないと判断したのです」

 題字も変わり、従来の新聞スタイルに比べると手軽に読むことのできる雰囲気になっているのは確かである。けれども、これも結果はすぐに出るわけではない。松谷自身も「判型を変えたからって購読者は激増しない」という。それでも、確実に変化を「業界」内部にも促す材料となっていることを確信しているように見えた。

 そんな内部をも変化させる要素であるサブカルチャーの重要性を、松谷は冷静に判断していた。そのことを感じたのは、話がモーセの海割りから映画『十戒』へと及んだときであった。

 チャールトン・ヘストン主演の『十戒』は、公開時に日本でも大ヒットした名作である。3時間超の映画の中で、残り時間が1時間を切る頃まで、ためて、ためて、ついにモーセの海割りシーンが大迫力で出現する。その記憶は多くの人に共有されていて、日本でも大勢の人がモーセといえば「海を割る人」くらいには覚えている。

「そう『ドラえもん』でも、十戒石板という秘密道具が……」

 ふと、そんな言葉が口をついて出た。すぐに松谷も反応した。

「モーゼステッキという道具もありましたね」

 多くの言葉を使わなくても一目瞭然。これが、サブカルチャーの成果である。藤子不二雄が『十戒』を観て大いに感動したエピソードは『まんが道』春雷編の中に記されているが、その感動が『ドラえもん』のエピソードのモチーフとなり、我々の記憶にと刻まれている。

 松谷が目指しているのは、まさにこれである。ゲーム『バイブルハンター』や『バイブルリーグ』は、それぞれのカードに記された効果が、その人物の逸話とイコールになっている。つまり、ゲームで遊びながら、なんとなく聖書の登場人物を知っていくことができるわけだ。それで興味を持ち、原典である聖書を読むきっかけを得るような、本当の「にわか」が増加すること。それが、松谷のもくろみなのだ。

「東北学院大学の聖書入門という授業では、バイブルリーグを教材で使ってもらっています。授業で人物を取り上げて、なぜカードの効果がこれなのかとか説明した後に、実際にゲームで遊ぶんだそうです。これは、文字通りこちらの意図したことですね。三国志だって、ゲームやマンガで知った人がいっぱいいるじゃないですか。キリスト教だって聖書を読まなきゃわからないだけじゃなく、ほかにも入口があっていいんじゃないんでしょうか」

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