膨大な情熱と調査が生んだ、作りたくなるレシピ46品『海軍さんの料理帖』が誕生するまで
#本
そして、いくつかの質問の後に、間宮羊羹の話を切り出した私に、有馬氏の口から出たのが冒頭の一言であった。
思わず身を乗り出しそうになりつつ、どうやって、そこまでたどり着いたのかを聞いた。有馬氏はもったいぶることなどなく、丁寧に解明までの経緯を教えてくれた。
前述のように、いま間宮羊羹という名前を冠して売られているものは、昭和17年頃に海軍が教科書として作成した『海軍主計兵調理術教科書』に掲載されているレシピである。
「これは、違うんじゃないか」
そう考えた有馬氏は、間宮のことを丹念に調査することを決めた。その最中に、ある人物から連絡が寄せられた。それは、実際に間宮に乗艦していて亡くなられた菓子職人の遺族からであった。
「その方もご自身で羊羹の再現に挑戦されていました。そこで、乗艦された方の経歴をお伺いしてみると、鹿児島の小林のお菓子屋で働いていたときに、友人伝いに当時の間宮の艦長に誘われて、乗艦したそうなんです」
そのわずかな情報を手がかりに、有馬氏は調査を続けた。間宮そのものだけでなく、九州の羊羹が、どのようなものかということを、である。
「小林で修行した味に艦長が惚れ込んだというのであれば、当時の小林の羊羹はどんなものなのかと考えました。そうして調査しているうちに、九州の和菓子文化は多くが佐賀県の小城を発祥とすることがわかりました。かつて小城で修業した多くの職人が、九州各地に散らばっていって独自の和菓子文化をつくりあげていった、という背景がわかってきたんです」
その小城で知られるのが、明治中頃から始まった小城羊羹である。この羊羹の特徴は、表面の糖衣。乾燥した表面に砂糖の結晶をまとわせていることである。その砂糖の効果で、外はパリッとして歯ごたえがあり、中はもちっとした食感を楽しめるのである。
「ご遺族の方にお伺いすると、間宮で作られていた羊羹を当時お土産にもらって、実際に食べたことがあるというのです。その見た目は金つばによく似ていたといいます。金つばよりもパリッとして、もちもちして、ずしんと甘いが後を引かない。そこで、同じ特徴を持つ小城羊羹のような作り方をしていたのが、間宮羊羹ではないかと思ったんです」
さらに調べていくと、いくつか残っている海軍兵の証言でも、同様の見た目や食感を記しているものが多くあった。当然、お土産として持ち帰ったものよりも、製造してから食べるまでの時間は短いはずだ。
「間宮は南太平洋に進出して、羊羹を製造し供給していました。通常の羊羹でも、時間がたてば表面が乾燥してパリッとしてくる。しかし南太平洋の高温多湿な環境では、短時間に表面が糖衣化することはありません。ということは、間宮では実際に表面を糖衣化する手順を加えていたのではないかと考えたんです」
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事