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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > ポケモン映画に隠された幻の最終回
オワリカラ・タカハシヒョウリの「サイケデリックな偏愛文化探訪記!」

ポケモン映画20周年記念作『キミにきめた!』に隠された、初代脚本家・首藤剛志の“幻の最終回”

 ここで、ポケモンアニメにおける首藤さんについて、もう少し書いておきたい。

 首藤さんの最大の功績は、サトシとピカチュウの関係性を作り上げたことともう一つ、あるキャラクターたちを創造したことにある。

 悪の組織に属しながら、落ちこぼれでマイペース、あくまで独自の美学に基づいてサトシとピカチュウを付け狙うラブリーチャーミーな敵役、ロケット団のムサシ、コジロウ、そして人間の言葉をしゃべるポケモン・ニャースだ。

 首藤さんは、子ども向けアニメの「優等生」的な制約の中で自由がきかない主人公チームに対比する、「遊び」がきく大人のキャラクターとしてロケット団の3人(?)を創造した。この存在が、ポケモンアニメにさらなる「抜け」を生んだのは間違いない。

 かくいう僕も、ロケット団の3人が大好きで、何度も笑わされ、感動させられてきた。彼らの魅力は、「間抜け」で「落ちこぼれ」で「情けない」敵役キャラクターでありながら、やる時にはやる「自分たちの基準」を持っていて、実は本当の部分では孤高の存在であることだ。

 だからこそ、どんなに間抜けでもかっこよく、その結果として何度空の彼方に吹き飛ばされようと、その敗北は清々しく希望に満ちている。アニメの文法にしたがった単純な「悪いやつ」でもなければ、「やっぱりいいやつ」でもない、自分たち自身でもどっちかわからないで画面の中でドタバタ右往左往しながら、その都度自分たちの信じる行動を選択していく。

 首藤さん風に言うなら、迷いながらも「自己存在を失っていない」キャラクターたちなのだ。そう、ポケモンアニメのキャラクターたちからは、「自己存在」というテーマが見えてくる。そして、そのテーマが結実したのが、首藤さんが脚本を担当した劇場版第1作『ミュウツーの逆襲』だ。

 この映画は、コピーされた生命を題材にとった「自分とは何か?」というダイレクトな「自己存在への問いかけ」がテーマだ。作られたクローン生命であるミュウツーとコピーポケモンたちは、自分の“本物”と戦い勝つことでしか“自己存在”を見つけられないと考えている。こうして自己存在を懸けて、コピーポケモンと本物のポケモンが傷つけ合う。ミュウツーも、自らのクローン元であるミュウと激突する。

 そんな中、相手を傷つけることを拒否するポケモンがピカチュウと、クローンと一緒にただ月を眺めているニャースだ。ロケット団のニャースは、人間になりたくて、人間の言葉をしゃべれるようになった、非常に変わったポケモンだ。人語習得という大技に力を使い果たしたばかりに、進化したり、新しい技を覚えることすらできない=もはやポケモンとしての機能を持っていない、という設定もある。ピカチュウと同じくモンスターボールには入らず、ムサシとコジロウともあくまで「同僚」であり「対等な仲間」だ。彼はポケモンでありながら、人間でもある、言うなれば「境界線上のポケモン」といえる。そしてそれは、ポケモンでもなければ、人間でもない、「何者でもない」ことでもある。

 そう、「自己を見失わない」ということは、「誰の所有物にもなれない=どこにも属することができない」ということと背中合わせなのだ。ピカチュウもまた、トレーナーの所有物でもなければ、野生のポケモンでもない。

 彼らは、自分たちの自己存在の曖昧さを抱えながら、それでも「自分でいよう」という選択を続けてきた。だから、「何者でもない」葛藤を恐れないし、そのために他者を傷つけることを選ばない。この戦いを見て「昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~」と嘆く、ムサシとコジロウ。彼らも「悪役」でもなければ、「正義の味方」でもない。組織の中で出世することもできなければ、誰に感謝されるわけでもない。それでも「自分」でいようとしてきた彼らは、「他者」の存在を否定しない。

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