ポケモン映画20周年記念作『キミにきめた!』に隠された、初代脚本家・首藤剛志の“幻の最終回”
#オワリカラ #偏愛文化探訪記
■「ネタバレあり編(緑)」
さて、まだ見てない人はここから先に進んではいけない。
ピカチュウがしゃべった。
これは衝撃だったと同時に、とても感動的だった。
ピカチュウの想いが通じたことを表すシーンで、おそらくサトシのイメージの中の出来事なのだが、どんなにピンチになってもモンスターボールに入らないピカチュウが、その理由を「ずっと一緒にいたいから」という“言葉”でサトシに伝えるのだ。
ある意味、禁じ手とも思えるこのシーン。もちろんこんな演出は、ポケモンアニメ20年の歴史で初めてである。そもそもピカチュウは、なぜモンスターボール=ポケモンの捕獲装置の中に入らないのか?
これについては、初代ポケモンの脚本家・シリーズ構成であった首藤剛志さんがこんなことを言っている。
「いつまでも自己を失いたくないのだ。“自己を見失うな”ということも、このアニメのテーマにしたかった。ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物になりたくないのである」
ポケモンアニメを語る上で、初期のポケモンアニメを支えた首藤さんは決して無視することのできない存在だ。
今作のエンドロールにも「一部脚本・首藤剛志」のクレジットが映るので、多くの初代ポケモンアニメのファンたちを落涙させたとか、させないとか。
ポケモンアニメを貫くテーマや世界観の基礎は、この首藤さんの手による部分が大きい。原作ゲームの「ポケモン」と「トレーナー」の関係は、ともするとモンスターボールで捕獲したポケモンを「道具」のように扱って代理戦争をしているように映る。
実際にポケモンがどんなに戦い傷つき敗北しても、トレーナーは傷つくことはなく、(なぜか)お小遣いを巻き上げられて敗走するだけで、ポケモンもまたどんなに酷使されても死ぬことも文句を言うこともない。
対戦ゲームなのだから当然だが、首藤さんはこの「所有」の関係性がアニメに極力反映されないようにシリーズ構成を行った。「バトル」をアニメの主軸にせず、ポケモンとの「出会いと触れ合い」をアニメのメインテーマにしたのだ。
その結果が、ボールに入りたがらない=所有物になりたくない=自分の意思でサトシと旅をするピカチュウであり、ポケモンのために自分が傷つくことをいとわないサトシのキャラクターなのだ。
ポケモンの第1話、そしてそのリメイクでもある『キミにきめた!』で、出会ってからずっとサトシの言うことを聞かなかったピカチュウがサトシのために戦うことを決意するきっかけとなったのは、身を投げ出し、自ら傷ついてでもピカチュウを守ろうとするサトシの姿だ。
本来のゲームでは絶対に選択できないこの行為があることで、あくまでサトシとピカチュウはそれぞれが傷つき認め合った対等のパートナーであり、お互いの意思でこれからの旅がスタートすることを印象付けた。
首藤さんの作り出したこの導入がなければ、もしかしたらポケモンアニメは強力なポケモンを道具のように繰り出すバトルだけが延々と続く、ありがちな少年向けアニメになってインフレの末に短命で終わっていたかもしれない。
あくまでポケモンアニメのテーマは「勝利」ではなく「信頼」であること、それはシリーズが首藤さんの手を離れてからも繰り返し語られる。
そういう意味でも、このピカチュウがしゃべり「自分の意思でサトシと共にいる」と伝えるシーンは、長い年月を共に旅してきたからこそ成り立つシーンであり、かつポケモンアニメの根底に流れるテーマをもう一度浮き上がらせ言語化する、まさに20年間のポケモンシリーズのハイライトだった。
このシーンに象徴されるように『キミにきめた!』は、初代シリーズ構成の首藤さんの脚本を直接的にリメイクしただけにとどまらず、ちょっと味付けは甘めだが、首藤さんのイメージを受け継ぎつつ、「今のポケモン」として描き出したシーンが多く見受けられる。
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