都市伝説のメリーさんを追い、煩悩だらけの禅僧 最期の夢に伴走した中村高寛監督が20年を振り返る
#映画 #インタビュー
■母への贖罪としての『赤い靴』
──太平洋戦争直前に米国人の父親に会うために横浜から渡米したミトワさんは、戦時中は日系人収容所に入れられ、戦後はLAのミサイル関連開発会社でエレクトロニクス技師として働き、日本に残した母親の晩年を看取ることができなかった。そんな肉親と生き別れた体験を『赤い靴』として映画化しようとしていた。ままならない人生を歩んできたミトワさんは、せめて映像の世界だけは美しくありたい、夢を叶えたいと願っていたように感じられ、切なくなります。
中村 美しいものを映像に残したいという想いは、確かにあったと思います。ドキュメンタリーの撮影中も、自分のいい姿だけ撮らせようとしていました。それが変わったのは、僕に向かって怒り出したのと同じ頃、長男のエリック夫妻が来日してミトワ家が全員集まった場で、ミトワさんがみんなで一緒にカメラに映ろうとした際に家族間で図らずも諍いが起きてしまってからです。それからは、それまで見せたことのない姿をカメラの前に見せるようになったんです。僕もミトワさんとは本当にガチンコ勝負の日々でしたし、撮っていて葛藤しました。果たして、このドキュメンタリーを観た人は、ミトワさんのことを好きになってくれるんだろうかと。『赤い靴』を映画にしたいという想いは、母親への贖罪の意識が強かったと思います。母親というか、女性への執着みたいなものだったのかもしれません。ミトワ家でミトワさんを支え続けてきた3人の女性たち、妻のサチコさん、長女の京子さん、次女の静さん、彼女たちもミトワさんに振り回され続けた人生でした。サチコさんはクリスチャンだったのに、ミトワさんと一緒に天龍寺で暮らすことになった。京子さんは米国で暮らしていたのに、高校生のときにいきなり言葉の通じない日本に来させられ、高校時代の記憶が欠落しているそうです。静さんの幼い頃、ミトワさんは祇園界隈で遊び回っていて、家にほとんどいない状態だった。それでも静さんは入院したミトワさんの看病は懸命にする。愛憎半ばする関係だったようです。
──ミトワ家を観ていると、「家族って何だろう?」と思ってしまいます。
中村 ミトワさんは茶道や陶芸に励んだり、禅寺で修業したり、映画をつくろうとしたり、いろんなことに手を出しています。本人も「何でも屋」と自嘲していたように、器用貧乏な人だったのかもしれません。12年にミトワさんが亡くなったとき、「結局、ミトワさんが残したものって何だろうね」みたいなことをスタッフと話していたんです。でも、告別式の場でミトワ家のみなさんが一列に並んでいる姿を見て、その様子をカメラに収めました。ミトワさんが何を残したかは分からないけど、人としての営み、次世代の人たちはちゃんと残したんだなと。これって、ドキュメンタリーをつくること以上にすごいことだと思えたんです。撮影の途中でミトワさんが亡くなり、取材対象者がいなくなったことから僕は虚脱感を覚えましたが、もちろん家族は僕以上だったはず。そんなとき、ミトワさんの遺品の中から、ミトワ家のみんなが映った8ミリフィルムが出てきたんです。これで、すべての点と点が線として繋がったなと思いましたね。
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