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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 『禅と骨』監督に聞く20年
ドキュメンタリー映画『禅と骨』公開記念インタビュー

都市伝説のメリーさんを追い、煩悩だらけの禅僧 最期の夢に伴走した中村高寛監督が20年を振り返る

都市伝説のメリーさんを追い、煩悩だらけの禅僧 最期の夢に伴走した中村高寛監督が20年を振り返るの画像2『禅と骨』を完成させるまで8年間要した中村監督。「ドラマパートの撮影も充実していました。3日間で集中して撮ったんです」。

■サイアクの出逢いから始まった11年ぶりの新作

──『ヨコハマメリー』の劇場公開から11年。京都のヘンリ・ミトワさんとはどのように知り合ったんでしょうか?

中村 『ヨコハマメリー』は戦後の日本社会を、戦争を体験していない世代である僕の視点から描いたものだったので、次回作を撮るなら米国という要素は外せないと思っていました。そんなとき、横浜の映画館シネマ・ジャック&ベティでのトークイベントの後、林海象さんと呑みながら、「横浜生まれで横浜育ちの日系米国人の禅僧のドキュメンタリーを撮ってみないか」と言われたんです。僕はそのときヘンリ・ミトワさんのことを知りませんでしたが、『赤い靴』を映画化したがっているという話も聞いて、面白そうだなと思ったんです。それが08年。その年に京都みなみ会館で『ヨコハマメリー』がリバイバル上映されることが決まったので、それで林さんに仲介してもらい、まずはミトワさんに一度会うことにしたんです。

──禅寺で修業したはずのミトワさんですが、『禅と骨』の中では監督にキレるなど、かなり感情の起伏の激しい人物だったようですが……。

中村 会っていきなり、ミトワさんに叱られたんです。僕のことも知ってもらおうと思って、『ヨコハマメリー』の上映にミトワさんを招待したんですが、上映が終わって会場に残ってくれたお客さんのパンフに僕がサインをしていたところ、「なんじゃい、この映画。ドキュメンタリーなのに、メリーさんは出てこねぇじゃねぇか」と大声でずっと怒鳴っていたんです。それでパンフを買うために残っていたお客さんたちはサァ~と帰ってしまった。みなみ会館の支配人は顔を真っ赤にして怒っていました。そこへ遅れて林さんが現われて、「終わった」と思ったそうです(笑)。林さんは僕にミトワさんのドキュメンタリーを撮らせるつもりだったんですが、その時点でまだミトワさんはドキュメンタリーを撮ることをOKしていなかった。いきなりミトワさんから罵倒され、パンフも売りそびれ、サイアクの出逢いでした。それで横浜に戻って、「もう二度と会うこともないだろう」と思っていたら、1週間ほどして、ミトワさんから「東京に行くので、ぜひ会ってください」というメールが届いたんです。無視してもよかったんでしょうが、当時すでに90歳近かった禅僧のお願いをそう無下には断れませんでした。ミトワさんは童謡の『赤い靴』を映画化したがっていて、スポンサー探しのためにたびたび上京していたんですが、そのときの相談相手に僕を選んだんです。僕をツッコミやすい相手だと思ったんでしょう(笑)。しかも相談に乗ってあげているのに、会う度にコーヒー代を僕が払うはめになってしまった。僕がコーヒー代の伝票を手に取ると「ありがとう」とニコッと笑うんですよ。

──そうやって、ミトワさんとの関係性ができてしまった。

中村 人間関係って、本当に最初が肝心ですよね(笑)。その頃のミトワさんは『赤い靴』の映画化がなかなか進まず、ストレスがいちばん溜まっていた時期だったようです。僕は僕で、『ヨコハマメリー』の後、次の作品を撮ることができずに悩んでいました。自分の撮りたい映画を撮れずにいるという2人の心境がシンクロしたんです。僕はドキュメンタリーを撮る際に、内面的必然性というものを自分に問うようにしているんですが、『禅と骨』の場合は自分がどうしても撮りたい題材というよりも、「ミトワさんの最後の夢を叶える手助けをしよう」という想いでした。普通のドキュメンタリーに比べるとかなりイレギュラーですが、それが今回の原点でした。

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