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祝・書籍化記念インタビュー

「佐藤秀峰さんには頭が上らない……」『やれたかも委員会』吉田貴司の屈辱の日々と、ウェブ漫画家としての生きる道

吉田 それを伝えに九州まで来てくれたというのに感動したのかなんなのか、その後いろいろ悩んだ末に仕事は辞めることにしました。それで、大阪に戻ってまたバイトをしながら漫画を描いていたんですが、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で初めて「これ面白いね」って言ってもらえたんですよ。その漫画で努力賞1万円をもらって、うれしくって東京に出てきました。

――え、1万円もらっただけで!?

吉田 編集者も「何しに来たの?」って言ってましたね(笑)。それから日雇いバイトとかやりながらネームを描いたら「増刊に載っけてあげる」ということになってトントン拍子にデビューできて、このまま行けるのかなーと思ってたら……なんともならなかったですね。その頃、担当から「佐藤秀峰さんがスタッフ募集しているけど、行く?」って言われて、作画スタッフになりました。

――絵柄も何も、全然違うじゃないですか!

吉田 佐藤さんが僕のデビュー作を読んで「すごい面白かった」と言ってくれたらしくて。佐藤さんにはそれから10年以上たった今でも、お世話になりっぱなしですね。絵柄も何も違いますがなんとか雇ってもらえて、ご飯が食べれました。もちろん、仕事は厳しい面もありましたが。

――佐藤さんのところで、何を描いてたんですか?

吉田 紙コップとか(笑)。お察しの通り、僕は絵がヘタなんで、なんにも描けないんです。佐藤さんのところって、雇用期間が3年間なんですよ。3年たってダメだったら、漫画家の道をどうするか考えなさいという方針で。でも、僕は1年、2年たってもうまくならないし、下にうまいスタッフがドンドン入ってくるし。絵は毎日リテイクの繰り返しだし、2年半たった頃が地獄でしたね。

――その頃、自分の漫画は描いていたんですか?

吉田 スタッフに入った当初は佐藤さんの原稿を目の当たりにして、自信喪失してしまいました。「こりゃもう何を描いても仕方ないな」と。みんな陥るらしいですけどね。でも、作画スタッフの仕事がまったくうまくいかないので、逃避のために自分の作品を描きたくなるんですよ。それで描いたものを「モーニング」(講談社)に送ったら、ちばてつや賞の準入選をもらえて。その後、『フィンランド・サガ(性)』という作品で連載させてもらえることになりました。

――おお、初連載ですね。それで、佐藤さんのところから独立できたんですか?

吉田 しばらくは兼業で描いてたんですけど、2年10カ月目くらいで辞めさせていただきました。月刊連載で20ページ、20万円もらえたので、1人で描いてる分には食べていけたので。でも、それも3巻くらいで終わっちゃって。すぐに次が始まると思って余裕かましてたら全然ネームが通らないし、ほかのところに持っていっても、賞には入っても連載できないみたいな、3年ぐらいそんな生活でしたね。

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