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日刊サイゾー トップ > カルチャー  > 『ゴジラ対ヘドラ』坂野義光監督に捧ぐ
オワリカラ・タカハシヒョウリの「サイケデリックな偏愛文化探訪記!」

“ゴジラ映画史上最大の異端児”坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラ

『ゴジラ対ヘドラ』という映画がある。

 ゴジラシリーズの11作目として1971年に公開されたこの映画は、シリーズ最大の「異色作」ともいわれ、一部ゴジラファンの間で熱烈な人気を誇る。

 当時の社会問題であった「公害」が受肉し、そのまま実体化したような怪獣「ヘドラ」と、ゴジラが戦う――。新怪獣とのバトルが通例となっていたこの時期の娯楽路線のゴジラにおいて、ヘドラは異端の対戦怪獣だった。

 そもそもゴジラは、人間の生んだ「核」という負の領域からヌッと現れた怪獣だ。54年の第1作『ゴジラ』で、人々はその存在に戦争の亡霊を見いだし、恐怖した。その脅威を排除するために全力を尽くし、沈みゆくゴジラに自らの過去も重ねて祈りを捧げた。

 それから時がたち、地球の、子どもたちの味方になっていったゴジラの前に立ちはだかったのは、くしくも同じ人間が生んだ「公害」という負の領域からヌッと現れたヘドラだ。言うなれば、ヘドラは70年型の「新ゴジラ」だった。

 この映画では、メッセージを背負っているのはゴジラではなく、ヘドラのほうなのだ。子どもの声に応えてどこからともなく現れたゴジラは、もはや実態を持たない、子どもたちが生んだ妄想のヒーローのようにすら見える。重量もなければ、奥行きもない、書き割りのようだ。そして、ヘドラは強い。ゴジラが対峙した怪獣の中でも最強の部類だ。

 感情を見せず、ただヘドロやスモッグを吸いつくし、全身から有害物質をまき散らし、無尽蔵に成長することだけを本能としている。それはそのまま、公害を撒き散らしながら膨れ上がる日本の姿を暗示している。メッセージを持った敵は強い。

 痛みも感じず、体が崩れても死なないヘドラに対して、今作のゴジラは鬼神のように立ち向かう。新たな「ゴジラ」であるヘドラに勝つには、自身の「ゴジラ」を取り戻すしかない。敵の「重さ」をむしり捨てるように、ヘドラの肉体をえぐり取っていく。

 これはゴジラにとって「アイデンティティー」の戦いなのだ。

 そこには余裕に満ちたヒーロー然とした姿はなく、ただ目の前の脅威を消滅させるために泥にまみれ、片目を潰され、腕は白骨化し、人類の武器まで利用して、満身創痍で辛くも勝利する。夕日に照らされ、死にゆくヘドラを傍目に佇むゴジラ、そこにかぶさる荘厳なコーラス。その姿は、自らの亡霊を葬り去っているかのようだ。第1作で沈み行くゴジラを見つめた人々と、ゴジラがダブる。

 映画は、「そして、もう一ぴき?」という新たなヘドラの出現を予感させるスーパー(字幕)で終わる。

 これもまた、新たなゴジラの存在を予感させた第1作目の『ゴジラ』と同じだ。

 僕は、この『ゴジラ対ヘドラ』こそが、第1作目の『ゴジラ』に迫ることができた唯一のゴジラ映画だと思っている。そこには、監督の「ゴジラには、その時代の文明批評的なメッセージが必要だ」という並々ならぬ想いがあるからだ。

 この映画を監督したのが、坂野義光さん。生涯において、メインの監督作はこれ1本。そして、その坂野さんは、5月7日に亡くなった。享年86歳。

 少し自分の話をしたい。人にはそれぞれの「特撮」を卒業するタイミングがある。僕にも、特撮を卒業しそうなときが二度あった。一度は、小学校高学年になったとき。アニメや漫画やゲームに夢中で、特撮番組を見なくなった。これは、ほとんどの人が特撮番組を卒業する至極まっとうなタイミングで、多くのクラスメイトも戦隊ヒーローの話をしなくなったし、怪獣ソフビを買ったり、ウルトラマンのガチャガチャを回す人もいなくなった。

 でも、そのときハマったアニメとその監督が、特撮のDNAを持っていることに気づき、すぐに戻ってきた。

 そのアニメは『新世紀エヴァンゲリオン』で、監督は雑誌でスペシウム光線のポーズを決めている庵野秀明さんだった。

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