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【おたぽる】

【実写映画レビュー】原作から下がった「次元」――『ゴースト・イン・ザ・シェル』に抱く違和感とは?

 また、本作では「W攻殻」とはまったく異なる物語が紡がれるが、それ自体も別に悪くない。日本のMANGAやANIMEを実写化するなら、生身の役者の芝居にフィットする世界観やストーリーに改変したほうが、収まりがよいからだ。トム・クルーズ主演の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』が、桜坂洋のライトノベル原作から大きく脚色されて成功したケースもある。

 問題なのは「物語が変わった」ことではない。「物語の次元が下がった」ことだ。「W攻殻」にあった生命や進化の定義考察、テクノロジーと自我に関する高次な問題提起、それによって喚起される知的興奮などは、『ゴースト・イン・ザ・シェル』においては、見る影もない。劇中で描かれる少佐の出自の秘密、「技術の進化」に対する危機感や、終盤に判明する「敵」と少佐との関係などは、どれもいちいち安っぽく、脱力するほど陳腐である。この感傷的で凡庸なSFミステリーはいったい何なんだ? 「攻殻」の看板を背負っている自覚が、まったく感じられない。そもそも製作陣が「ゴースト」の概念をちゃんと理解しているのかどうかも、甚だ怪しい。

 一応、本作には「W攻殻」で見たことのあるシーンがてんこ盛りだ。光学迷彩で透明化した少佐のさまざまなアクション。無機質な少佐の部屋。ゴミ収集車の2人組。オペレーターの指先が割れてキーボードを高速入力。水中に潜る少佐と船で迎えに来るバトー。多脚戦車とのバトルや、戦車のハッチを力ずくでこじ開ける少佐の後ろ姿。『イノセンス』からの引用もある。

 しかしこれらは、各シーンがもともと持っていた文脈や象徴的意味合いをまったく無視して拝借しただけの、表面的なビジュアルイメージにすぎない。「W攻殻」とは本質的に異なる(次元の低い)物語の要所要所に、「W攻殻」ファンに馴染みのある名シーンを、都合よく切り貼りしただけのシロモノだ。歌謡曲にたとえるなら、よくもまあ、ここまで懐メロヒット曲の「名フレーズ」だけをいくつも引用して、曲調のまったく異なる新しい1曲を破綻なく成立させられたものだ。ある意味、感心する。努力はすごい。

 しかし、その「努力」とは、漢字の意味を解さないデ・ニーロが、見よう見まねで筆を握り、白い紙をお手本そっくりに黒インクでペイントする「コピー」と同じものだ。もちろんデ・ニーロに罪はない。日本のテレビ番組の要請に応じただけだ。

 ただ、デ・ニーロの「ショドウ・ペイント」は無邪気かつ誠実なトレースの産物であって、掛け軸として床の間を飾れる「書」とは呼べない。文字が帯びる意味や書き順の理解、書き手がしつらえるべき精神性などが、すっぽり抜け落ちているからだ。デ・ニーロが悪気なく言い放った「コピー」に筆者が感じた違和感の正体は、これだった。

 無論、日本人である我々とて、書家でもない限り書道の際にはお手本を見る。しかし、その際の気分は、「コピー」や「トレース」とはまるで違うはずだ。硯で墨をすり、呼吸を整え、筆を握り、紙に向かい合う。文字の意味を理解し、心に染み込ませ、然るべき書き順をもって、墨の濃淡にすら感情を滑り込ませながら、書く。毫(ふで)を揮(ふる)う、すなわち揮毫(きごう)。それが、書道という造形芸術の「次元」というやつだ。

「書き順や心構えなんぞ無視しても、お手本そっくりに書くことはできる」。そんな反論もあるだろう。「書道はお手本の再現度がすべてであり、白地に黒1色で表現される文字列など、1と0で構成されるデジタルデータに変換すれば、余裕で数KBに収まる」。ふむ、そうかもしれない。そう主張する人たちはきっと、『ゴースト・イン・ザ・シェル』が「攻殻」の看板を背負っていても、まったく気にならない。破綻のない、ひとつの独立したSF映画としてちゃんと楽しむ。「こんなの『攻殻』じゃない!」などと不寛容な駄々はこねない(筆者と違って)。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』を許容できるのは、「カリフォルニアロールだって立派なスシだよね」と無邪気に言い切れるような人たちだ。カニかまとアボカドとマヨネーズが酢飯で巻かれたものが「スシ」と呼ばれることに抵抗がある人間とは、器の大きさが違う。「スシにマヨ…ネーズ…だと!?」などと、小さなことで青筋は立てない。そこに違和感など抱かない(筆者と違って)。
 
 よく知られているように、北米のMANGA、ANIMEファンの「W攻殻」の評価は非常に高い。ただ、一足先に当地で公開された『ゴースト・イン・ザ・シェル』の興行成績は、製作側が期待したほどではなかったそうだ。当然だろう。「W攻殻」を愛するアメリカ人たちにしてみれば、いくら書道に馴染みがないとはいえ、本作が次元の低い「部分的コピーの切り貼り」であることくらいは理解できる。

 だから筆者を含む不寛容な日本人は、彼らにこう伝えるべきなのだ。ジャパンには「仏作って魂(ゴースト)入れず」ってことわざがあってだな、と。
(文・稲田豊史)

最終更新:2017/04/15 07:15
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