前田日明は、本当にただの「ヘタクソ」だったか……ベテランプロレス記者が読み解く『1984年のUWF』
#本 #格闘技
これを契機に、UWF再興への動きが始まり、同5月12日、前田、高田、山崎、そして若手選手らが決起し、第2次UWF(新生UWF)が後楽園ホールで旗揚げした。第2次UWFは、第1次時代の“佐山ルール”をベースに、格闘スタイルを推し進め、既存のプロレスに疑問を感じていたファンを熱狂させ、一大ムーブメントとなった。89年には新日本から藤原、船木優治(現・誠勝)、鈴木実(現・みのる)を引き抜き、大阪球場や東京ドームにも進出し、大成功を収めたかにみえた。しかし、経営面ではひっ迫して下降線をたどっており、フロントと選手間に摩擦が起きる。その結果、90年12月には両者間に大きな亀裂が入り、選手は一致団結をアピール。神新二社長は所属全選手を解雇し、第2次UWFはあっけなく終焉を迎えた。その後、前田が中心となり、新団体設立に動いたが、一部の若手選手が反発したため、前田は解散を宣言。第3次UWF構想は幻に終わり、“UWF”という名の団体は、6年8カ月で幕を閉じた。
結局、UWFは前田一人のリングス、高田がエースとなったUWFインターナショナル、藤原が代表を務めるプロフェッショナル・レスリング藤原組と3派に分裂。さらに、方向性の違いで、藤原組から船木、鈴木らが離脱し、パンクラスを設立した。一方、第1次UWFでプロレスと訣別した佐山は、新格闘技シューティングの普及活動に精を出すことになる。これがUWFのあらましだ。
そういった背景を踏まえて、同書は書かれているが、序章でプロレス、UWFとは何の縁もない中井がいきなり登場して、「何のこっちゃ?」と違和感を覚えた読者は少なくないだろう。中井は佐山が創設したシューティングの元選手で、あの“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーと対戦したこともある実力者。幼い頃から熱狂的なプロレスファンだった中井は、中学2年のときに誕生した第1次UWFに刺激を受け、学生時代は柔道、レスリングに熱中した。UWFに幻想を抱いた若者だったが、北海道大学1年のとき、89年8月13日、神奈川・横浜アリーナで開催されたUWFの試合をクローズド・サーキットで観戦し、衝撃を受けたという。この日、組まれた高田VS船木戦は、船木が掌底で高田をKO寸前に追い込んだ。ダメージの大きい高田はコーナーマットに寄りかかったままだったが、レフェリーは船木のKO勝ちとみなさず、試合を続行させた。結局、高田がキャメルクラッチ(ラクダ固め)という、UWFらしからぬ技で逆転勝ちを収めた。この試合を見た中井は、「UWFは真剣勝負の格闘技ではなかったのか」との思いに駆られ、プロレスとの訣別を決めたと記されている。
違和感といえば、同書における前田への低評価にも首を傾げる。佐山側から書かれた本であることは明白だが、あまりにも前田に手厳しすぎるのだ。確かに第1次UWFにおいて、佐山が果たした役割は大きく、格闘スタイルのプロレスが築けたのは佐山がいたからこそ。ただ、第1次UWFはマイナーな域を脱せず、社会現象ともいえるブームを巻き起こしたのは第2次UWF。前田は、そのエースであり、ファンの間でも“最強説”が存在した。ところが、同書で前田は、藤原のように関節技がうまくなく、キックも佐山のように強力ではなかったと断定。さらには、「対戦相手にケガばかり負わせるヘタクソなプロレスラー」というのが、同書での前田評だ。
第1次UWFの末期である85年9月2日、大阪で組まれたスーパー・タイガー(佐山)VS前田の一戦は異様な雰囲気の中、進んだ。前田は佐山の蹴りを受けないなど、ある種、ガチンコを仕掛けたような試合だった。最後は前田が急所蹴りを見舞ったとして、反則負けが宣せられた。結局、佐山はこの試合を最後に第1次UWFから去った。一部では、まったくUWF道場での合同練習に参加しない佐山が、リング上では主導権を握っていることに不満を募らせたフロントが、前田をたきつけたとともいわれている。あたかも、前田が佐山を潰すため、急所を狙ったともされるが、実際には通常ではない前田の雰囲気を察した佐山が、早々に試合を終わらせるため、入ってもいないのに急所蹴りをアピールしたとの説もある。
例の長州襲撃事件では、長州のみならず、藤波辰巳(現・辰爾)や外国人レスラーにケガをさせて欠場に追い込む「ヘタクソ」と断罪。これに関して、前田を擁護する気など毛頭ない。ただ、ヘタであっても、その強さはもう少し評価してもいいのではないか? あのデカい体なのだ。上に乗られただけで、対戦相手にとっては厄介な選手であることは間違いない。
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