傷ついたのは誰の心? 作家・石田衣良と『君の名は。』新海誠のやりとりに感じた違和感
しかし、そもそも高校時代に楽しい恋愛をしてこなかったことは、そんなに悪いことなのだろうか? そしてそれは恥ずべきことなのだろうか?
ここが私の感じた違和感だ。なぜなら、私はそう思わないから。
このやりとりは、2人だけの問題ではない。映画の作り手、つまりこの作品を“いい”と思っている人が、楽しい恋愛経験がないだろうということは、新海監督の映画を見て感動した多くの人達もまた、同じようにそのような経験がないと言っているようなものだ。
石田衣良の発言は、その意味で、かなり多くの人を不安にさせていると言ってもいいだろう。
だが、その点において不安になることはない。まず、学生時代に楽しい恋愛をしてこなかった人は、胸を張って生きていい。片思いをしていたものの、一言も話ができず、ずーっと彼女と話す妄想に浸っていたなどということがあれば最高だ。
個人的な考えではあるが、恋愛ものの映画であるとか、夢のような話であるとかは、その憧れに対する渇望感が強い方が、より楽しめると思う。
その考えに従えば、新海監督も悲しい思いをたくさんしてきた可能性はある。しかし、本人がそれを否定している以上、あれこれと詮索するのは野暮というものだ。もしかすると「自分では楽しい恋愛生活を送りながら、楽しい恋愛をしてこなかった人の心に沁みる作品を作る天才」もいるかもしれないのだから。
とにかく、どうしても言っておきたいのは、学生時代に楽しい恋愛をしてこなかったとしても、それは決して悪いことでも恥じることではなくて、むしろその時に養われた想像力や感受性で新たなクリエイト能力を身につける人もたくさんいるんだということだ。
私だって、学生時代楽しい恋愛をした記憶はないが、その反動でアイドルばかり追いかけていたら、アイドルライターとして仕事をいただけるようになった。
人生なんて最終的に何がどう転ぶかわからないのである。
そしてそれは多分、恋愛に限ったことではないだろう。お金がない生活を経験しているからこそ、自分で稼いだお金のありがたみがわかるのだし、食べるのに苦労してきたからこそ、やっと口にした食事の美味しさも分かろうというものだ。
実は、生まれながらにして恵まれているということは、ある意味で不幸なのである。
もちろん、お金にも女性にも恵まれず生きてきた者の慰みだと思ってくれてもいい、でも、世の中なんてそういう風にしてうまく成り立っているのもまた真実であると思うのだ。
今回の論争では、はからずも各々の恋愛観のようなものがあらわになる結果となった。
作家にしろ映画監督にしろ、クリエイティブな作業をする人は、何かよりどころとなる信念のようなものがあってしかるべきなのかもしれない。
ならば、それらの作品を享受する我々も、自分の中の価値観を見直し、物事に接したほうがよいのではないだろうか。
(文=プレヤード)
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