銭湯を舞台にした宮沢りえ主演作は海外でも話題! 新鋭・中野量太監督が銭湯に託した熱い愛を語る
#映画 #インタビュー
■家族の繋がりは血縁だけではない。それを証明するための映画
――中野監督の銭湯愛を感じさせますが、中野監督は前作『チチを撮りに』もシングルマザーに育てられた2人の娘たちの成長物語で、今回も主人公の幸野双葉(宮沢りえ)は女手ひとつで娘・安澄(杉咲花)を育てているという設定。父親の不在も、中野監督の作品に共通しているテーマのように感じます。
中野 自分の中にある本当の感情を使って表現したいなと常に思っているんです。映画の世界でも、ウソはつきたくないんです。自分がちゃんと分かっている感情を使って演出することで、自信の持てる作品にできると考えています。ボク自身、父親を早くに亡くし、母親が女手で兄とボクを育ててくれました。双葉=ボクの母というわけではありませんが、母親の愛情のお陰でボクは育つことができたという想いがすごくある。なので、その感覚を使って、ウソのないものを描こうとすると、どうしても片親の物語になってしまうんです。
――主演の宮沢りえさんも、お母さんと二人三脚で芸能活動してきたことで有名でしたね。
中野 宮沢りえさんが主演を受けてくれたのも縁あってのことだったなと思います。最初は新人監督のボクが、『紙の月』(14)での演技が絶賛されていた宮沢さんにオファーしていいものかと躊躇しました(苦笑)。当たって砕けろと思い、脚本を送ったところ、読んだその日に出演を決めたそうです。宮沢さんはこれまで母親役のイメージはなかったんですが、実際にはお子さんを育てていますし、絶対にこの役をできると確信していました。存在感のある母親役ですが、宮沢さんは現場でも座長としてみんなを引っ張ってくれる姿がすごくかっこよかったですね。
――前半は双葉と安澄の母子の物語ですが、次第に母子の縦の関係だけでなく、「幸の湯」に関わる人たちが家族同然の関係へと広がっていくことに。
中野 家族って何だろうと考えてみると、血の繋がりだけが家族ではないとボクは思っているんです。家族の定義はないと思っていますし、もしあったとしても家族の数だけ定義はあると思うんです。だから、幸野家みたいにアンバランスな家族でも、家族だと言えると思うし、そのことを証明してみたくて映画にしたところがあります。でも唯一、家族として大切なものは食卓だとボクは考えているんです。ひとつ屋根の下で、食卓を囲んで一緒にご飯を食べるということが、もし家族の定義があるとすればそれが家族の証じゃないのかなと思うんです。逆に血が繋がっていても、同じ食卓を囲むことがない家族もいる。それって本当の家族なのかなというと、ちょっと難しいですよね。それもあって、幸野家が食事をするシーンは何度も登場させているんです。
――映画の撮影中はスタッフもキャストも同じ弁当を食べて、寝起きを共にする。撮影クルーも家族みたいなもの?
中野 そうですねぇ、映画の撮影隊ってひとつのチームですし、よく“組”って言い方しますしね。一緒に映画を作っているうちに、家族みたいな関係になっていきますね。撮影中、オダギリさんはよくひとりで食べようとするので、子役の女の子たちに「ちょっとお父さんのところに行って、『一緒に食べよう』と言ってきて」とけしかけていました。子どもたちに声を掛けられたら、オダギリさんも逆らえなかったみたいです(笑)。
――なるほど、カメラの裏側でも、中野監督は演出していたわけですか。
中野 もちろん。カメラの回っていないときも、いろいろ考えて演出しています(笑)。双葉たち幸野家がみんなそろって浴場を清掃するシーンがありますが、撮影とは別にクランクインの10日間くらい前に宮沢りえさんたちに集まってもらい、「月の湯」のご主人に清掃の仕方を教えてもらい、実際に掃除しました。銭湯の仕事を体験することで、キャスト間の親子感も生まれ、役づくりに繋がったんじゃないかと思います。でも、やっぱりオダギリさんだけいませんでしたけど(笑)。
――本作はかなりシリアスなホームドラマですが、オダギリジョー扮する頼りない父親の存在が笑いを誘う。
中野 オダギリさんの三の線の芝居が大好きなんです。『舟を編む』(13)の演技とか素晴しいですよね。オダギリさんが加わってくれたことは頼もしかったし、双葉(宮沢りえ)と安澄(杉咲花)との母子のドラマ部分はかなり熱い芝居だったので、オダギリさんがふっと力の抜いた芝居をしてくれたことで、すごくいいバランスになったと思います。そこも計算して脚本段階から練り込みました。
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