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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 「ポケモンカード」とシゲルくんの話
オワリカラ・タカハシヒョウリの「サイケデリックな偏愛文化探訪記!」

「ポケモンカード」とシゲルくんの話

 発売までの5日間、僕はそのカードを使って特訓(イメージトレーニング)にいそしんだ。もちろん、全部で60枚のカードが必要なゲームなので、手元にある2枚だけでは圧倒的に数が足りなすぎるのだが、それでもイメトレせずにはいられなかった。

 さまざまなシチュエーションで、いろいろな対戦相手と戦うことを妄想した。イメトレ以外の時間は、コロコロの記事を穴が開くほど見る。来るべき戦いに備えて、知識も必要だからだ。

 その記事の背景には、豆粒くらいの大きさで、さまざまなカードがズラリと並んでいた。それを見て「この絵柄はあのポケモンに違いない……」などと推理したり、脳内でイメトレする。文武両道とはこのことだ。

 そして、ついにやってきた発売日。

 前夜は、なかなか寝つけなかった。目をつむると、まだ見ぬ無数のポケモンカードたちがズラーッと目の前に現れる。ミュウツーも、リザードンも、ニドキングもいる……。

 あぁ、みんなすぐに会えるからね――。

 やっと寝付いたあとの夢の中でも、おそらくひたすらカードを愛でていただろう。

 翌日、玩具店の開店時間に町へ繰り出した少年タカハシは、衝撃を受けた。

「ぜんぜん売ってねぇ……」

 そうなのだ。実は、ポケモンカードゲームは発売時、ほとんど無視された存在だった。

 ポケモンカードゲームを開発したクリーチャーズは、製造元の任天堂にも「任天堂ブランド」で発売することを拒否され、やっと見つかった新参の会社・メディアファクトリーからの発売にこぎ着けたものの、大手の流通からも取り扱いを拒否されていた(この辺の詳しい話は、日経BP社の『ポケモンストーリー』を読もう!)。

 なんとか流通を見つけて発売にたどり着いたわけだが、ほとんどのお店に満足に商品が並ばない、という不遇のスタートを切った。

 ポケモンカードは、完全に「鬼子」だったのだ。

 その要因となる背景には、まだ日本でトレーディングカードゲームという文化が根付いていなかったことが挙げられる。実はこの手の、プレイヤーそれぞれがカードを集めて持ち寄り対戦する「トレーディングカードゲーム」が誕生したのは90年代に入ってからだ。

 93年にアメリカで誕生した「マジック:ザ・ギャザリング」という対戦型のカードゲームが大流行してから、さまざまな亜種が登場するようになっていたが、96年当時、まだ日本では市民権が得られていなかった。

 そんな「マイナー」で「難しい」ゲームは「子どもにはわからないから、はやらない」というのが、当時の業界の大多数の意見だったのだ。

 その後、ポケモンカードゲームが子どもたちに1年で約2億枚、2年目は5億枚以上を売り上げたことを考えると、このときの大人たちの思い込みは間違いだったとわかる。

 いつでも大人は子どもを侮ってしまう。閑話休題。
 
 とにかく、どこにも売ってないポケモンカードゲームを求めて、タカハシ少年は自転車で走り回った。

 最後の望みをかけ、自転車を飛ばして、やってきたのが隣町のイトーヨーカドー。そこでついに、ポケモンカードゲーム「スターターパック」と邂逅したのだ。

 ゲームに必要なカード60枚(キラキラのカードは1枚)と、「ラッキー」というポケモンが彫刻されたコインがセットになり、紙製のケースに入って1,300円。税抜き。子どもにとっては、決して安い値段ではない。

 それでも、夢にまで見たそのカードは、お年玉を積んでも惜しくないほど価値のあるものに見えた。
 
 僕は数カ月間、夢に見ていたポケモンカードゲームを、ついに手に入れたのだ!(大人になって知ったのは、ポケモンカードゲームを流通させたのは、イトーヨーカドーに太いラインを持つ流通会社・スターコーポレーションだったのだ。いま思えば、ほかのところで売っていなかったポケモンカードが、イトーヨーカドーにはいつもあったのには、ちゃんと理由があったのだ。面白いね、大人になるって!)

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