天皇陛下の生前退位報道、宮内庁全面否定も「NHKに抗議せず」その深いワケとは?
#週刊誌 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
第4位は大橋巨泉さんの死にまつわる現代の記事。
私と巨泉さんとの出会いは作家・山口瞳さんの紹介で東京競馬場だった。その頃は競馬界への辛口評論家としても頭角を現していた。
中央競馬の馬主になり、1973年に所有馬ロックプリンスが東京優駿(日本ダービー)に出走したときの感激ぶりとあわてぶりはすごかった。
朝からタキシードをビシッと着て、心ここにあらず。何を話しかけても上の空だった。ロックプリンスは穴人気になったが27頭中11着。
現代で山口さんに「競馬真剣勝負」を連載してもらった。毎週ゲストを呼んできて馬券対決し、それを山口さんに書いてもらうという豪華なものだった。
ダービーの週には巨泉さんにも登場してもらったが、ダービーでは単勝一点しか買わなかった。山口さんは「書きようがない」とため息をついていた。もちろん狙った馬は来なかった。
ホテルオークラが定宿だった。よくTBSの番組が終わるのを待って赤坂で飲んで銀座に流れた。
途中で『11PM』(日本テレビ系)の司会をやりにいったことが何度かある。付いていってスタジオで見ていた。かなり飲んでいたと思うが、乱れはまったくなかった。
初めての仕事は、現代で連載してもらった「巨泉のゴルフ」。当時の私はゴルフに関心も知識もまったくなかった。記事中の写真はティーショットからバンカーショットまで、すべてフォロースルーの決まった瞬間のものばかり使ってどやされた。「元木、少しは勉強しろよ」。今なら少しわかるが。
「オレはテレビの人間とは付き合わない」が口癖だった。軽薄だと批判されたこともあったが、猛烈な勉強家だった。
競馬、麻雀、釣り、ゴルフ、何でも基本を徹底的に勉強してから始める人で、アメフトも英語の解説書を熱心に読み込んでいた。
1994年、私が現代編集長のときコラム連載を依頼した。2つ返事で引き受けてくれてこう言った。
「尊敬している山口瞳さんの『男性自身』(週刊新潮)を抜くぐらいの長期連載にしたい」
その時私がつけたタイトルは「内遊外歓」。喜んでくれた(後に「今週の遺言」と改題)。
この連載を愛読していた菅直人氏からの電話で参院選に出馬し当選したが、半年で辞めてしまった。組織の歯車になれる人ではなかった。
ある年、山口さんの『男性自身 卑怯者の弁』(新潮文庫)から引用した文章を年賀状に書いて送った。大変喜んでコラムに「元木からこんな年賀状が来た」と紹介してくれた。以下はその文章。
「麻雀をやっていて凄く良い配牌のときに『夢ではないか』と叫ぶ人がいるが、憲法9条を知ったとき、私は『夢ではないか』と思ったものである。こんな幸運があっていいのだろうか。命をかけなくていいだけではなく、日本国が私の命を守ってくれると約束したのである。(中略)私は小心者であり臆病者であり卑怯者である。戦場で、何の関係もない何の恨みもない一人の男と対峙したとき、いきなりこれを鉄砲で撃ち殺すというようなことは、とうてい出来ない。『それによって深い満足を得る』ことは出来ない。卑怯者としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである」
巨泉さんの還暦祝いの席だった。フライデー編集部にたけし軍団が乗り込んだ「たけし事件」以来、講談社との関係が途絶えていたビートたけしさんを私に紹介してくれた。
「2人でうまくやれよ」。和やかに飲みながら、日を改めて会いましょうとなった。だが、その直後、彼がバイク事故を起こしてしまったため、そのままになってしまったのが残念だ。
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