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週刊誌スクープ大賞

マイナンバー汚職“異色の官僚”が激白! 「本当の汚職官僚」と「不安だらけの制度の穴」

 意外といっては失礼だが、テレビを見るより本が好きで、それも社会問題に関する本を読んでいたという。「経済問題や、イスラム国などの国際情勢や地球温暖化問題などにも興味を持っていた」と、久昭氏が言っている。

 新潮では、日経の経済面なんかを特によく目を通していて、株をちょっとやっていたそうである。

「詳しくは知りませんが、損したり儲けたり、だったのだと思います」(久昭氏)

 永遠の処女といわれる原だから女優時代はスキャンダルとは無縁だったが、男性の影はあったのではないかという指摘は多くある。

 よくいわれるのは、小津監督との関係である。小津の妹・山下トクは、生前、2人の関係をこう述懐していたという。

「私は、おそらく兄は、原さんのことが好きだったと思います。ただ、兄は仕事と私生活を切り離して考えようとしていました。あれだけの大女優を個人で所有するものではないと割り切ろうとしていたんじゃないでしょうか」(「文芸春秋」1989年9月号)

 そのほかにも、東宝のプロデューサーだった藤本真澄や、驚くことに義兄であり映画監督の熊谷氏の名前も挙がっている。

 原を取材しているノンフィクション作家の石井妙子氏が、こう解説する。

「原節子と熊谷久虎氏は二人だけで生活した時期もあり、久虎氏が亡くなるまで、その傍らから離れることはなかった。(中略)男女関係があったかは噂の域を出ませんが、強固な精神的な結びつきがあったのは間違いありません」

 新潮には、このような話も載っている。2004年に89歳で物故した矢沢正雄さんは陸上短距離の代表選手としてベルリン五輪に出場し、帰国直後の36年秋、日独合作映画『新しき土』の撮影でドイツに渡る前の16歳の原節子と出会った。

 よく落ち合って、餅菓子を食べに行ったりしていたと矢澤氏は語っていたという。だが、順調だった2人の交際も、戦争の波にのみ込まれる。

 戦地へ行っても文通は続けていた2人だが、43年、無事復員した矢沢さんは、「本当に生きていてくれてよかった」という原の歓待に、「何を置いても彼女と一緒になろう」と決心したという。

 だが、厳格な父に「ああいう華やかな仕事をしてる人は、お前のためにならない」と大反対され、7年に及んだ恋愛は潰えたという。

 藤本とは、こんな話がある。昭和20年代、下北沢にあった「マコト」という喫茶店でアルバイトをしていた藤井哲雄さん(85)が、こう証言する。

「ある日ママに、“明日は藤本先生が来るから、2階の部屋をよく掃除しておいて”と言われました。すると翌日の昼下がり、のちに東宝映画社長になる映画プロデューサーの藤本真澄さんが、後から原節子さんが現れたんです。それから1年ほど、月に1、2回は従業員に暇が出され、建物が2人に提供されていました」

 永遠の処女は、恋多き女でもあったようである。

 私は、原の映画の中では『晩春』(1949年)が好きだ。原は笠智衆が演じる大学教授の娘。母親を早く亡くし、父の面倒見ているうちに「お嫁行きたくない、お父さんと一緒にいるほうが幸せ」だと、「疑似近親相姦的」(白井佳夫氏)絆ができてしまう。婚期に遅れた娘を嫁がせるために父親は再婚するふりをして、娘を結婚させるという物語である。結婚式を終えて、家に帰ってきた笠がひとりでぽつんとお茶を飲むシーンが印象的である。

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