トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > 連載・コラム > 週刊誌スクープ大賞  > マイナンバー汚職官僚が激白!
週刊誌スクープ大賞

マイナンバー汚職“異色の官僚”が激白! 「本当の汚職官僚」と「不安だらけの制度の穴」

 さて、8月13日に、元プロボクサーで慶應大法科大学院生だった小番(こつがい)一騎(25)が、妻の不倫相手で弁護士の陰茎を切り取った事件は、衝撃を与えた。

 その裁判が11月26日に東京地裁で開かれ、その模様を新潮が伝えている。そこで冒頭陳述が読み上げられたが「小番の奥さんと被害者のセックスに関する話ばかりで、かなり驚きました」(傍聴人のひとり)。

 港区内に事務所を持つ弁護士のところに、小番の奥さんAが勤め始め、7カ月後に「被害者は、Aと共に港区内の寿司屋で食事を取り、飲酒した後、事務所に戻り、同所内で初めて性交した。Aは嫌がる様子を見せなかった」(冒頭陳述より)。

 2人は何度も逢瀬を重ね、Aは嫌がるそぶりを見せず「被害者の陰茎を口淫した」(同)という。

 しかし、弁護士がAのことをあだ名で呼んだことで、2人の関係がおかしくなり始めた。そんな時、帰りが遅いことで妻を小番が咎め、ケンカになった。Aは「上司からセクハラされて悩んでいる」と「ウソ」をつき、強いショックを受けた小番が、逆上して弁護士事務所に妻と赴き、ボクシングで鍛えたパンチを浴びせた後、「被告人は、持っていたリュックサックから前記のはさみを取り出し、被害者のズボンを脱がせ、左手で陰茎を取り出し、右手に持ったはさみでこれを切断した」(同)。

 切ったペニスは、共用トイレに流してしまった。

 被害者の弁護士は緊急手術を受けたが、「陰茎が根元から1センチ程度しか残っておらず、現在、被害者は、小便用便器での排尿は不可能」(同)だという。

 妻の浮気が、2人の男の人生を大きく狂わせてしまったのである。

 今週の文春と新潮は、原節子一色である。9月5日、昭和の大女優・原節子(本名・会田昌江)は、敬愛した小津安二郎監督が屋敷を構えた鎌倉の地で静かに息を引き取った。享年95。

 文春によれば、肺炎が悪化し、神奈川県内の病院に運ばれたのは8月中旬のことだった。ただ入院当初は、彼女の病状は親族の間でも楽観視されていたという。50年以上にわたって原と同居していた甥の熊谷久昭氏が、こう語っている。

「看取ったのは私を入れて5人ほどでした。生前、元気な頃に遺書を書くと言っていたのですが、結局残さずに逝ってしまいました。私にとっては贅沢を許してくれない、うるさい叔母さんという感じでしたね」

 原は大正9年、横浜市で二男五女の末っ子として生まれた。新潮によれば、女学生時代には教育家になろうと考えたり、英文学をやろうと思ったりしていたと原は自叙伝の中で述べている。

 原の父親は日本橋で衣類関係の問屋を営んでいて、恵まれた幼少期を送ったかに見えるが、親しい友人たちによれば、そうでもなかったようだ。

「お母さんがかわいそうな人でね。関東大震災の際、沸騰した鍋を頭からかぶってしまったのです。近所で“小町”と言われるほどきれいな人だったのに」(友人)

 さらに、1929年の世界恐慌で生糸の価格が暴落して家が傾き、「昌江ちゃんはいつも同じ服ばかり着る“着たきり雀”になった。卒業後は、横浜高等女学校に進んだのですが、家計を助けるため、2年で中退してしまったんです」(同)

 義兄で映画監督の熊谷久虎氏の推薦を受け、日活撮影所に入社する。その後、引退までの28年間で、小津監督などの作品を含む112本に上る映画に出演した。華やかな映画スターとして一時代を築いた原だが、引退後は一転、映画関係者との接触をすべて断ってしまった。

 突然の引退の理由は、さまざまにいわれている。真っ先に上がるのは、実兄で映画カメラマンの会田吉男の事故死である。昭和28年、映画『白魚』の撮影中、会田はカメラを持ったまま機関車にはねられ、命を落とすのだ。

 だが、こうした見方もある。ある日、撮影所で、原が岡田茉莉子に衝撃的な話を打ち明けたという。

「『今朝、鏡に向かったら、片方の目が見えないのよ』とおっしゃるのです。昔は、フィルムの感度が悪かったので、眼にライトを強く当てないと、綺麗に映らなかったのです。特に原さんはクローズアップの表情が美しかったですから、他の女優よりもライトを多く浴びていたと思います。また引退の2年前に公開された『秋日和』の撮影中には、『畳の上での芝居がしづらくなってきたので、もうやめたいの』と弱気におっしゃられたのです。その原因が眼の病気かどうかわかりません。ただ小津さんの映画は、畳の上での演技が多いことは間違いありませんものね」

 甥の久昭氏も、引退の原因は白内障によるものだと考えているようだ。

 引退後の準備は万全だったという。何しろ新潮によれば、51年、公務員の初任給が6,500円にすぎなかった時、原の出演料は映画1本あたり300万円を超えたそうだ。

「そのたびに、都内の狛江や練馬、杉並などの土地を購入したそうです」と、映画評論家の白井佳夫氏は語っている。原が芸能界を去って31年を経た、94年のことだ。

「国税庁が発表した前年度の高額納税者75位に、原の本名、合田昌江の名が載りました。納税額は3億7,800万円で、所得総額は13億円近かったはず。隠遁する前まで住んでいた東京都狛江市の800坪余りの土地を、電力中央研究所に売却したんです」(古手の記者)

 だが、彼女の隠遁生活は質素を極めていたと、久昭氏が文春で話している。

「もちろん彼女が1人で食べていく分には困りませんでした。八十代の頃までは、うちの車で葉山のあたりに一緒に買い物に行くことはありましたが、主に食材とか日用品を買うだけで、洋服は買わなかったですね」

 タバコは初老の頃に止めたそうだが、お酒は90歳を過ぎても毎日たしなんでいたという。

「小さい缶ビールを一日一本飲んでいましたね」(久昭氏)

123456
ページ上部へ戻る

配給映画