山口組分裂を予告していた引退組長たち――話題の書『血別』に見る7年前のクーデター未遂の反省とは?
『血別――山口組百年の孤独』(太田守正著/サイゾー刊)を手にしたのが8月中旬、7月からの暑さに身体がこたえる真夏だった。そして当の山口組の分裂を耳にしたのは同書を読み終え、興味を惹かれたページをめくり返している8月下旬だった。
元山口組直参の侠客・太田守正氏が記していた六代目山口組の矛盾、すなわち本部による物販や人事問題などが噴出する形で、すでに離脱(処分)者たちは神戸山口組という新組織を結成したという。ただし、山一抗争の時のような流血の抗争となっていないのは、暴対法などの法整備がすすんだ甲斐もあってか、さいわいなことだ。
六代目山口組の主流派・弘道会と反主流派となった山健組・宅見組の内部対立は、太田氏が批判した『鎮魂』(盛力健児著、宝島社刊)にもすでに明らかで、やはり派閥対立が解消しないまま、ここに立ち至ったのであろう。その意味では太田氏と盛力氏の本は分裂を予告し、導火線になったかのような印象である。
いっぽう、ただちに抗争が起きなかった事実とあわせて、今回の分裂劇がほとんど事前に漏れなかったという驚くべき事実である。おそらく離脱者たちの計画のうちに分裂劇は行なわれ、大量処分を生んだ7年前のクーデター未遂の反省のうえに、用意周到に行われたからであろう。ヤクザも学習能力・反省能力があるというわけだ。
その反省という意味では、盛力氏の先行書よりも、太田氏のほうが数等すぐれている。ヤクザの精神年齢は親分と呼ばれる人ほど無邪気で、たいがいにして悪ガキの気分を残したままだが、太田氏のそれは老成しない無邪気さを残したまま、だからこそ失敗や難事にも清新に向き合うところに共感が抱ける。盛力氏の自己を省みない態度、鼻につく自慢げな言説とは好対照だ。われわれ堅気の者が訊いてみたいのは、ヤクザの反省や経験に裏うちされた、年輪と風格のある言説なのである。
それにしても今後、六代目山口組と神戸山口組が相互に存在を認め合うのか、認め合わないまでも抗争に至らなければ、暴力団抗争史に新たな一ページを刻印することになるかもしれない。いったん流血の抗争になれば、抗争を暴力団の組織的な業務とみなす判例があるので、いまや民法の使用者責任で組長が逮捕・訴追される。銀行口座や保険、ゴルフ場にも入れない、いわば身分差別の暴対法のもとで、新しいスタイルの組織運営がなされるのであれば、それはとても物悲しく、しかし本来の任侠的共同体の姿を宿しているのかもしれない。
利益共同体ではない、相互扶助と親和的な共同体、そして擬似家族的な血の結束である。太田氏がいう「血別」とは、それでは彼の絶望だったのだろうか。いや、われわれは血の別れの向うにある、あたらしい共同体のあり方を知りたいのである。
(文=高輪茂/作家)
太田守正氏のインタビューはこちら
https://www.cyzo.com/2015/08/post_23441.html
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