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日刊サイゾー トップ > エンタメ > ドラマ  > 『ど根性ガエル』第8話レビュー
構成作家・相沢直の“スナオなドラマ考”

このドラマにとって“仲間”とは何を指すのか?『ど根性ガエル』第8話

 確かに京子ちゃんは、ひろしにとってもゴリライモにとっても、片思いの対象ではあるが、実はそれだけの存在でしかないといえばそうかもしれない。いや、実際にはもちろんひろしにとってもゴリライモにとってもそれだけの存在のはずはないのだけれど、京子ちゃん自身はそう思ってしまっている。人としての仲間には、入れていないと。

 ここに『ど根性ガエル』が、仲間というものをどう捉えているかが描かれている。ただ単純に、一緒にいれば仲間というわけではない。そして、目的を同じくして行動しているという状態でさえも、おそらく仲間ではない。自分を一人の個人として見てもらうこと。そういった個人として存在することを許されるということ。それが仲間なのだ。

 これまでこの連載で描いてきたように、『ど根性ガエル』は人々の多様性を是とする。そうであるならば、目的や行動も違っていていい。だがそれでも、仲間であることはできる。むしろその人、個人の多様性や個性、あるいは面倒くささもすべて含めて引き受けるというのが、仲間になるということであり、それはおそらくどんな場面でも許されているのだろう。

 ひろしは、京子ちゃんにこう告げる。

「決まってんじゃないですか。人として仲間なんて、当たり前じゃないですか。何があったってね、仲間は仲間ですよ。死ぬまでね、いや、死んだって仲間だよ」

 そばにいるから仲間なのではない。仲間でいることを決めるからこそ、人は仲間になる。そしてそれはきっと、本当は誰にだってできることなのだ。
(文=相沢直)

●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは@aizawaaa

最終更新:2015/09/08 17:17
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