ひろしはなぜ、主人公としてめんどくさいのか?『ど根性ガエル』第3話
#テレビ #ドラマ #ど根性ガエル #スナオなドラマ考
いい感じじゃないか。これでこそ、ドラマというやつだ。しかし『ど根性ガエル』が特殊なのは、ここにカタルシスを置かないという点にある。同僚に褒められたひろしは、喜ぶ顔ひとつ見せずに「俺は、なんのために頑張ってんだ?」と自問するのだった。実に、めんどくさい主人公である。
これは冒頭にも書いた通り、ひろしがこれまでの過去と現状に十分満足しているからというのもあるが、もうひとつの個性として、一般的な常識をそのまま受け入れずに自分で導いた答えしか信用しないというキャラクターにも依る。つまりひろしは、子どもなのだ。大人ならこうするべき、という考え方が通用しない。
ピョン吉がこっそりセッティングした就職祝いの席でも、ひろしはいら立ちを隠さない。寄せ書きに書かれた「頑張れ」「おめでとう」という文字を見て心底嫌そうな顔をする。「そんなに素晴らしいかね、働くってのは」と身もフタもないことを言い、ピョン吉ともケンカになる。ここにはひろしのピョン吉に対する、勝手に大人になりやがって、という怒りもあるだろう。
ひろしは子どもである。年齢を重ねたら働くべきだとか、労働は無条件で価値のあるものである、といった一般常識を信じない。ゴリライモの言葉には心を打たれたとしても、それはゴリライモ自身が導いた答えであり、ひろしの答えではない。
そしてひろしは、自分の職場にピョン吉を連れていくという選択をする。『ど根性ガエル』第3話におけるこの流れは、一般的なテレビドラマとはまるっきり逆だ。普通であれば、ピョン吉から離れて独りで頑張るひろし、という展開がカタルシスを呼ぶわけだが、『ど根性ガエル』はそれが逆転している。それはひろしが「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉といつまでもよ」と語った以上、ほかのドラマとは逆転していたとしても『ど根性ガエル』にとっては必然でもある。ひろしはめんどくさい主人公なのであり、だからこそ彼が導き出す答えは、特殊なものとなる。
だが、『ど根性ガエル』という作品に全体として流れる切なさは、まさにこの部分にある。ピョン吉の死と別れは第1話から想起されていて、ひろしの「このまんま平穏無事に暮らしていくこと」という願いはおそらくかなうことはない。そしてそのことを、いまだひろしは知らないのだ。ピョン吉は働いているひろしを励まして「楽しいんだよ。母ちゃん、オイラ楽しい」と涙を流す。その涙の本当の意味を、我々視聴者は知っている。だからこそ『ど根性ガエル』は作り物の感動ではなく、リアルに胸に迫るものとして、見る者の心を打つのだ。
●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは @aizawaaa
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事