これはインドネシア版『ゆきゆきて、神軍』か? 虐殺者たちとの対話『ルック・オブ・サイレンス』
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アディが加害者たちの家を訪ねて回っていることを知った母親は心配する。ラムリが殺されたときは辛かった。その上、アディまで失いたくない。老いた父も母も、ラムリが無実の罪で同郷者たちから虐殺されたことをずっと黙って耐えてきた。同じ町に虐殺者たちが今もいるからだ。町の権力者となった彼らに逆らっては暮らしていけない。アディとその一家は、“沈黙”という名の牢獄で息を潜めて生きていくしかなかった。でも、アディの育ち盛りの子どもたちまで、同じ牢獄に押し込めるわけにはいかない。アディが危険を冒してまでジョシュア監督の取材撮影に同行したのは、その沈黙の牢獄を自分の代で打ち破るという決意があってのことだった。
加害者たちが口にする「上からの命令に従っただけ」「直接、自分の手で殺してはいない」という弁明。第二次世界大戦中に、ユダヤ人虐殺ための鉄道輸送計画を考えたアドルフ・アイヒマンが「ヒトラーの命令に従っただけ」と自分の無罪を主張したことを想起させる。人間は自分より立場が上の人間に命令された場合、命令内容が非人道的なものでも容易に従うことはアイヒマンテストで実証されている。大虐殺はインドネシアやアウシュヴィッツだけで起きた悲劇ではない。人間は誰しも、虐殺に加担しかねない危うい社会動物なのだ。だが、ジョシュア監督はアイヒマン裁判やアイヒマンテストの結果を持ち出すことで納得し、そこで思考停止してしまうことを懸念している。
ジョシュア「アイヒマン裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(裁判記録『イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』の執筆者)のことを僕はとても尊敬しています。でも、彼女がアイヒマンと対峙したのは裁判所という場所で、被告人と傍聴人という限定された関係でした。アーレントはアイヒマンのことを『彼の唯一の罪は、浅さ(shallowness)だ』と断じていますが、僕はそれには違和感を覚えるんです。アーレントとアイヒマンとの関係に比べ、本作ではアディと虐殺者たちとは非常に至近距離で直接的に対峙したわけです。アディは声を荒げることもなく、虐殺者たちを非難することもなかったけれど、虐殺者たちの弁明に耳を傾ける彼の表情はとても複雑で変化に富んでいたのではないでしょうか。この映画は虐殺者たちを罰するために作ったものではありません。アディと対峙した加害者側の人たちも実に複雑なリアクションをみせています。認知的不協和と呼ばれるものだと思うんです。アディと向き合うことで、加害者たちの複雑な人間性が浮かび上がっていることに注目してほしいんです」
被害者の遺族が闇に葬られた事件の真相を知る関係者たちの自宅を一軒ずつ訪ねて回るというスタイルは、原一男監督の傑作ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(87)を彷彿させる。『ゆきゆきて、神軍』も日本の歴史的暗部にメスを入れた衝撃的な内容だった。そのことを伝えると、ジョシュア監督は笑いながら首を振った。
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