体罰&モラハラの洗礼から真の芸術は生まれる? サディスティック教師の流血指導『セッション』
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「スタジオ・バンド」で生き残るには、血みどろの特訓あるのみ。寸暇を惜しんでドラムを叩きまくるニーマンの持つスティックが血で染まる。正ドラマーになるには、自分にも他人にも非情になるしかなかった。ニーマンから交際を申し込んだニコルに対し、「練習の足手まといになるから別れよう」と告げる。フツーの大学生であるニコルは、あきれかえるしかなかった。「チャーリー・パーカーのように早死にしてもいいから、名前を残したい」と男手ひとつでニーマンを育ててくれた温厚な父親(ポール・ライザー)に対しても、傲慢な態度を見せるようになる。周りからどう思われようが関係なかった。フレッチャーが振り向くようなキレ者のドラマーになることが、ニーマンの唯一の願いだった。
ニーマンとフレッチャーの遭遇は、ロバート・ジョンソンが伝説の十字路で悪魔と出会ったようなものだろう。ロバート・ジョンソンは悪魔に自分の魂を売り渡たし、代わりにギター演奏のテクニックを伝授されたと言われている。ブルース奏者としての名声を手に入れたロバート・ジョンソンだが、放蕩生活の果てに27歳で夭折する。ニーマンが憧れているサックス奏者のチャーリー・パーカーも酒と麻薬に溺れて34歳で亡くなった。たとえ肉体が滅んでも、名曲と名演奏の伝説が後世に生き続ける。ひと握りの天才だけに許される特別な死生観だ。若くて世間知らずなニーマンは、そんな伝説のミュージシャンたちの仲間になることを本気で目指していた。
フレッチャー教授は人間の姿をした悪魔だ。ただし、フレッチャーが仕えているのは地獄の魔王ではなく、音楽の神様である。音楽の神様に身も心もすべてを捧げる覚悟の若者をフレッチャーは探していた。これから社会に出ていく学生たちに善悪の在り方を説く聖職者では決してない。真の芸術が誕生する瞬間、創作熱の沸騰する現場には、善と悪という二元論的な価値観は存在しない。言い換えるならば、才能のない者たちが善と悪の価値観を唱え、善という価値観の中で安心して暮らしているということ。才能のない人間同士がいたわり合う、そんなぬるま湯の世界からお前は飛び降りられるかとフレッチャーはニーマンを挑発する
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