貧困世帯のJKに忍び寄る、“性春”の甘い誘惑「スカウトマンが校門前に出没するケースも……」
#出版 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
また70年代のヤクザ映画を牽引した名優が逝ってしまった。菅原文太、享年81歳。高倉健と同時代に活躍したが、晩年の2人の生き方はかなり違っていた。
健さんは映画一筋だったが、文太は家庭を守り、山梨で有機農法をやったりしながら、脱原発、戦争反対を声高に語り続けた。
今週も文春、新潮は健さん特集を大きくページを割いてやっている。
「後輩の役者が挨拶に来ると、自身もすっと立ち上がり、一礼をする。まめに手紙を出す。サプライズ・プレゼントを贈る。私も母が亡くなった時、健さんから葬式に香典とお花を贈っていただきました。かように、健さんは気遣いの人なのです。ただ客観的に見れば、こうしたことからも、彼が処世術に長けた人だということが分かります。不器用どころか、実はすごく器用な方だったと評価できる。知人に数え切れないほどロレックスをプレゼントしており、確かに気前は良いのですが、値段の高いデパートなどでは買わず、輸入会社から直接仕入れていました。こういう細やかさ、周囲への気配り、まめなところは、剛健な俳優というより、柔らかさを持った女優的なものを感じます」
『網走番外地』シリーズ時代からスチール撮影で健さんに密着し、公私ともに親交の深かった写真家のムトー清次氏は、新潮でこう分析している。
今週は各誌グラビアを含めて、健さん一色といってもいい。週刊誌には「おめでた1号悲しみ3号」という言葉がある。結婚などのおめでたい話は1週間しか持たないが、有名人の離婚や葬儀は3週間持つというのだ。
健さんのプライバシーの多くはベールに包まれているが、少しずつ明らかになってきている。たとえば、江利チエミにぞっこんだった健さんは、ストーカーまがいのことをやっていたという。彼女の所属事務所社長だった木村隆氏が振り返る。
「生前のチエミから聞いた話ですが、大豪邸だった江利家の前の電柱に、夜な夜な身を隠すようにして立つ人影があったそうです。家人が気味悪がり、父親が誰何すると、“俳優の高倉健です”と答えた。しかし、空前の人気を誇ったチエミに比べ、当時の健さんはまだ無名。父親は“そんな俳優、知らん”と取り合わなかった」
それでも彼はチエミ詣でを続け、鉄格子の門からチエミのいる洋館のほうに向かって靴を投げ込み、自分の来訪を知らせたという。父親も、ここまで娘のことを思っているならと交際を許したそうだ。
健さんが東京にいるとき、世田谷・瀬田の自宅から毎日通っている「場所」があった。
ポルシェやマセラッティなど、こだわりの車コレクションの管理にロケ同行、諸々の手配をこなす「チーム高倉」がそれだが、そこは港区・高輪の商業施設内にある理髪店なのだ。
「一見したところ、高級理髪店の雰囲気なのですが、隠し部屋がありまして。実はそこ、健さんの“執務室”になっているんですよ」(ベテラン芸能記者)
部屋の中央に散髪台が置いてあるほか、テレビやFAXなども完備していて、店主とコーヒーを飲みながら歓談して一日を過ごした。
健さんにはしばしば「ゲイ説」が流れたことがあったが、実際の彼は無類の女好きだったと、ベテラン映画記者が明かしている。
「古くは、東映ニューフェイスの2期生として入社した直後に同期の女優、丘さとみに手を出し、付き合っていた。江利と結婚していた当時も、女遊びは豪快でした。たとえば木曽でロケを行った際、1日時間が空くと、後輩たちを引き連れて、名古屋まで繰り出し、遊郭で遊ぶこともありました」
倍賞千恵子とも男女の仲を疑われたことがあった。60代半ばに差し掛かった90年代後半、ある女性タレントに夢中になっていたという。長渕剛や広岡瞬と結婚、離婚を繰り返し、当時は独身だった女優で歌手の石野真子だ(健さんて、こういうのが趣味なのか?)。
口説き方もすごい。北海道・札幌すすきのにある豪壮な寿司屋を丸ごと借り切り、2人きりで寿司をつまみながら語らい、彼女への熱い思いをぶつけ、その夜、彼女を口説き落としたそうだ。
さらに健さんには、80歳を超えてなお、親密に会食を楽しむ女性がいたという。この数年、自宅に近い高級イタリアン・レストランに40代の女性を伴って、お忍びで食事に来ている姿が何度も目撃されていたそうだ。
文春によると、健さんが入院した病院は慶應大学病院のVIP病棟。の知人がこう話す。
「健さんが本当に心を許していた人は、数少なかった。俳優では小林稔侍さん、中井貴一さん。それに、毎日のように通っていた理髪店の主人Sさんと、都内で飲食店を経営するJさんです」
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