宮沢りえに生き別れの弟がいた!「母の死を知ったのは、2ちゃんねるでした……」
#出版 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
さて今週の第1位は、文春の宮沢りえに生き別れた弟がいて、姉さんに会いたいと告白しているインタビュー記事。
先頃亡くなった宮沢光子さん(65)とりえは、一卵性母娘と呼ばれていた。だが、光子さんに息子がいたことはほとんど知られていないそうだ。
光子さんはオランダ人男性との間にりえをもうけた後、ピアニストの後藤徹(仮名、71)さんと結婚していた。そして1977年7月に男の子が生まれ、りえの弟にあたる。しかし、4カ月後に光子さんはりえを連れて家を出て、以来音信不通だという。
弟の後藤聡さん(仮名、37)は20歳になったころ、祖母が伝えたいことがあるといい、あなたの本当の母親は宮沢光子で、女優の宮沢りえのお姉さんだと教えられたという。
聡さんは精悍な顔つきで、くっきりとした目元は姉のりえにそっくりだそうだ。母が亡くなったことを知ったのは「2ちゃんねる」だった。姉に会いたいと接触したことがあるという。
「四年ほど前に池袋の東京芸術劇場で姉さん主演の舞台があって、再会を希望する趣旨の手紙を祖父がしたため、それを父親が持参し、関係者に渡したのですが、結局連絡はなかった。僕は会って話してみたいけど、向こうはそうでもないのかなと思いました」(聡さん)
あまり知られていない光子さんの人生というのは、どういうものだったのか。芸能記者がこう語っている。
「光子さんは留学目的で渡欧した船中で船乗りだったオランダ人と知り合って結婚。七十三年にりえが誕生しましたが、生後四ヶ月で破局。その後、光子さんが保険外交員や飲食店で働きながら、シングルマザーとしてりえを育てた。一方、りえは十一歳からモデルを始め、十四歳で『三井のリハウス』のCMに出演し大ブレイク。その陰には光子さんの凄腕のプロデュース力があり、アイドル絶頂期のふんどしカレンダーや篠山紀信撮影のヘアヌード写真集『サンタフェ』も彼女なくしては成功しなかった」
その後、92年に日本中が沸いた貴花田(現貴乃花親方)との婚約が発表されるが、その直後に破局。
「結婚して、部屋のおかみさんになったら芸能界を引退するという条件だったのが、光子さんが反対して破談。その後も、自殺未遂や激やせなど、りえの波瀾万丈の人生の背景には、光子さんとの濃密な親子関係があった」(同)
りえは、2年前に元プロサーファーの夫と離婚協議中であることを発表し、現在、5歳になる娘と2人きりで生活しているそうだ。
聡さんの父で、光子さんの夫だった後藤徹さんが、別れて30年以上経っているが全く連絡を取っていなかったと語る。
「初めて出会ったのは、一九七四年頃。私は銀座のクラブでピアノを演奏していて、彼女はモデルをやりつつ、お店で働いていました。同じ職場ということで、僕は毎日演奏して、彼女も週に何回か来ていました。彼女はオランダから帰ってきたばかりで、娘のりえがいて、生活のためにクラブで働いていました。平日は仕事があるので、娘を彼女のお姉さんの家に預けて、週末になると一緒に過ごしていました。最初の印象は、背の高い女性。身長が一六六センチくらいで、スリムな体型でした。お酒が好きで、煙草も吸っていた。酒はすぐに酔うタイプ。『ウチの後藤はいるか?』と酔っ払ってお店に来ることもありました」
2人は出会ってから1年ほどして一緒に暮らすようになり、正式に入籍する。しかし、結婚生活はわずか2年で破綻したという。
「彼女はりえに対しては何でも尽くしたと思います。そう、彼女は冗談で『将来、りえはハーフできれいだからホステスでもさせよう』と言っていました。結婚当時は芸能界なんて考えていなかったと思います。別れた後にりえが三井のリハウスのCMに出ることになったという電話があった。この仕事もりえは、母親の考えに従っていたと思います。でも息子には一度も連絡してこなかった」
徹さんは、最後にこう心情を漏らしたという。
「私は彼女に対して、自分の分身を作ってくれたことに本当に感謝しています。そして、いつか、りえと息子が出会える機会があればいいなと願っています」
りえの演技は、こうした人生の浮き沈みが磨き上げてくれたのであろう。りえが弟に会わない理由はなんなのだろう。そこのところをぜひ知りたいね、文春さん。
(文=元木昌彦)
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