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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 人間椅子、25年目の告白

デビュー25周年、イカ天バンド【人間椅子】が現代に喝!「この国はヤバいと思っています」

ningen_isu_int_suzuki.jpgベースの鈴木研一

──ナカジマさんは当時、人間椅子ではなく別のバンド(GEN)でイカ天に出演されて優勝もされていますよね。

ナカジマ 僕ら(GEN)は、3回目の放送で優勝したんですけど、まだ、イカ天自体の放送が始まる前に収録されていたんで、出演するといっても最初はなんのことだかわからなかったですね。僕らを応援してくれる音楽関係者の人たちが、土曜の深夜の番組に出られるぞって話をくれて、最初は「土曜の深夜族(イカ天以前に同じく三宅裕司が司会でTBS系列で放送されていた音楽番組『SUPER WEEKEND LIVE 土曜深夜族』)」だと思ったんですよ。司会が三宅裕司さんだっていうし。それに出られると思って収録に行って、演奏を撮って、で、生本番があるからってまた行ったら、おなじみの出演者の人が誰もいなくて、あれって思ってね。バンドマンばっかりだなって思っていたら、ああいうバンド歌合戦みたいな番組だった(笑)。

鈴木 俺も最初、『土曜の深夜族』だと思ってたよ(笑)。

ナカジマ 1回目の放送を見て初めて気付いたんですよ。これなんだってね。たまたま3回目放送で優勝して、その次の週でFLYING KIDSに負けた(笑)。そんな感じでしたね。出る経緯については、僕らも当時は人間椅子と同じことを考えてたんです。テレビに出たら動員が増えるかもって。

和嶋 まず、動員でしたよね。あと、バンド活動を続けたいっていう。

ナカジマ あの頃って、動員を上げないとまずなんにもつながらなかったですからね。まずはライブで動員を上げて、注目をしてもらってからというのが普通の頑張り方、叩き上げみたいなところがあったんです。

和嶋 まさにバンドブームだったから、オーディションでデビューするというよりも、ライブハウスでがつんとやってるほうが断然かっこよかったしね。自分たちもそっちをやりたかった。レコード会社にテープを送ってとか、そういうのではなくて、生でライブやってウケるというね。そういうのがすごくかっこいいと思ったんです。

──ネットも何もない時代。当時のテレビが世の中に与える影響力というのは今以上にすごかったと思うのですが、オンエアされての反響はどうだったんですか。

和嶋 オンエアされて次の日に当時のドラムの人と東高円寺を歩いてたら、いきなり前から来た女の子に「あ、昨日出てた人たちだ!」って言われて、一晩でこうなるんかとびっくりしましたね。その日の夜、友達のライブを観に芝浦に行ったら、やっぱりみんな、「あー! 人間椅子」って集まって来ちゃってね。テレビの力ってやっぱりすごいんだなって。すごく恐いなとも思いましたね。動員はその後、一気に増えました。入れない人がたくさん出るくらい。ずっと、小さいところでやっていましたからね。

──急に有名になってしまう心境って、どんな感じだったんですか。

和嶋 悪いという気はしなかったですよ。若かったですしね。素直に嬉しかったですよ。ウケてよかったなって。

──東京だけじゃなく、地方でも人間椅子を知る人が出てきたわけですが、地方を回ったりもしたんですか?

和嶋 うん、イカ天企画で地方を回ったりしましたね。

鈴木 あれギャラなかったな(笑)。

和嶋 もらっている人はもらっていたみたいですけど。

ナカジマ イカ天は優勝した人たちだけギャラが出たんです。だからGENはもらっていましたよ。

──反響についてはGENも同じような感じだったんですか?

ナカジマ 僕のときはイカ天のオンエアの数日後にライブがあったんですよ。当時の動員なんて友達呼んで10人か15人くらいのものでしたけど、そんなバンドの動員がいきなり500人になりました。知らないお客さんばっかり500人。

和嶋 500人ていうのはすごいね。

ナカジマ 代々木でのライブで、5バンド出演の、出番は2番目、持ち時間も30分くらいだったんですけど、250人のキャパの場所で、表にファンが250人並んでたいへんでした。服とかつかまれたりしてね。帰りも先輩から「お前ら車じゃないと帰れない」って、車を用意してもらって。でも、車に乗るにも乗れないくらいだったんですよ。車の窓を開けて、そこから押し込められた感じでなんとか乗って(笑)。女の子にベルト引っぱられたり、もみくちゃで、もうびっくりしましたね。

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