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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 快進撃続ける体操・内村の歴史
アスリート列伝 第15回

前人未到の記録更新中 体操・内村航平を生み出した母親の本音

41sSc5x2M7L.jpg『「自分を生んでくれた人」』(祥伝社)

アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。

 2012年、ノースグリニッジアリーナにて行われたロンドン五輪個人総合決勝。内村航平にとって2度目のオリンピックは、「金メダル間違いなし」という期待を一身に背負った一戦だった。そんなプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのが、航平の母・周子さん。「金メダルを取れなかったら、なんと言えばいいのだろう……」自分が演技をするわけでもないのに、彼女は不安に駆られていた。

 父母とも体操選手として活躍した内村家は、いわゆる「体操一家」だ。航平が3歳の頃に、両親は長崎県で体操クラブ「スポーツクラブ内村」を開校。数多くの子どもたちとともに、航平と妹の春日も体操選手として育て上げられた。

「自分たちは犠牲になってもいい。借金をしてでも航平や春日には試合や合宿に行かせてあげました」(内村周子『「自分を生んでくれた人」』祥伝社)

 けれども、両親は航平に対して英才教育やスパルタ教育を施したわけではなかった。自宅兼練習場に鉄棒や跳び箱、マットといった体操器具が並んでいる環境に身を置いた航平は、自然に体操の道へと進んでいった。小学校5年生の誕生日にねだったトランポリンの上で、航平は1時間でも2時間でもずっと跳び続け、現在の武器となる類いまれな身体感覚を養っていく。母は「航平の才能は、心から体操を愛していること」と語っている。

 だが、彼の才能は幼少期から開花していたわけではない。航平にとって、デビュー戦となった小学校1年生の時の試合では、まさかの最下位。床運動、跳び箱など4種目に出場したものの、まったくいいところを見せられなかった。成長した航平は、中学生の時に全国大会に出場するも、結果は42位に終わっている。

「両親からは何も言われなかったから、自分でやりたいことをやっていましたね。当時は、全中(編註:全日本中学校陸上競技選手権大会)へ行けたらいいなという程度でした。だから通し(4種目/ゆか・あん馬・跳馬・鉄棒)の練習はやったこともなくて、試合はいつもぶっつけ本番だったんです。練習でも基本的にきついことはやらなかったし。でも、おかげですごく楽しく体操ができた。それでここまで続けられたのかなと思っています」(JOCインタビューより/
http://www.joc.or.jp/column/athleteinterview/athmsg/20080730_uchimura_01.html)。

 ケガに悩まされた高校1年生の頃には、全日本ジュニア選手権で個人総合140位だったものの、ようやく高校2年生になって航平は頭角を現していく。同大会で個人総合3位、全国高校体操競技選抜大会で個人総合1位、高校3年生時には高校総体で個人総合2位、全日本ジュニアで個人総合1位に輝く。そして08年、19歳の航平は、初めての五輪となる北京で銀メダルをもぎ取った。

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