「この話は、わしが死んでから世に出してください」教誨師が語った、死刑囚たちの実像
#本
以前、サイゾー本誌で「死刑特集」という企画を行った時に、集中して何冊もの死刑に関する書籍を読んだ。死刑廃止、死刑存置、それぞれの立場からさまざまな意見が書かれていたが、同時に、死刑について考えるということは、「廃止」か「存置」かに回答することではないのではないかという根本的な疑問にも思い至った。単純な存廃二元論ではなく、社会が犯罪者を死に至らしめること、その意味を考えることこそが死刑問題におけるひとつの本質ではないだろうか。
ドキュメンタリー作家・堀川惠子の新著『教誨師』(講談社)は、浄土真宗の僧侶であり、かつては全国教誨師連盟の理事長を務めていた渡邉普相による告白をもとに執筆された一冊だ。「この話は、わしが死んでから世に出してくださいの」という遺言通り、堀川は、2010年から取材を続けてきた渡邉の言葉を、その死後に刊行した。
拘置所に入った死刑囚と、一般人が面会する機会はまずない。だから、受刑者に対して精神的な救済を施す教誨師は、死刑囚と面会することができるほとんど唯一の民間人となる。死刑囚の心の拠り所となるため、キリスト教や神道、仏教の各宗派がほぼ無償で教誨師たちを派遣しており、渡邉も、三鷹事件の竹内景助をはじめ、ほぼ半世紀にわたって数々の死刑囚たちと拘置所の中で心を交わしてきた。
渡邉は、親鸞上人を開祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派の僧侶。連続殺人、強盗殺人、強姦殺人など、死刑判決が下された極悪人たちを前に、親鸞の遺した「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人ですら往生できるのだから、悪人はなおさら往生できるはずだ)という言葉を頼りに教誨に臨んでいく。だが、もちろん死刑囚に向かい合うことは、一筋縄ではいかない。渡邉の話など聞かず、雑談に終始する者や、「私は女だから死刑にはならない」とたかをくくる者、まだ明らかになっていない事件の真相を告白する者、平仮名もろくに書けないため渡邉に文字を教わる者、そして、渡邉も舌を巻くほど仏教の勉強にいそしむ者などさまざまだ。週2回、一人あたり30分の面接をこなすと、渡邉は心身ともにクタクタになった。
渡邉の尽力によって、多くの死刑囚が改心し、自分の起こした事件に向き合い、深い反省へと導かれていった。しかし、どんなに改心したところで、その先に待ち受ける死刑という未来がくつがえることはない。ある死刑囚は、渡邉にこう漏らした。「私も正直言うと、こんなに信心してどうなると思うことはありますよ。自分は所詮、死刑囚じゃないかと、時々、自暴自棄になりますわ……」
しかし、未来に死が待ち受けているからこそ、渡邉は努力を重ねた。死刑囚が自分の起こした事件に向き合い、反省し、その原因となった心の問題を解消し、安らかに死を迎えさせることこそが渡邉の目的である。数年、十数年という時間をかけて、渡邉は死刑囚たちと話し合いながら、心の奥の襞に触れ、その考え方を改めさせていく。そして、彼らとの別れは、ある日突然、一枚の令状とともにやってくる。死刑執行の通知だ。
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