映画『キック・アス』が描かなかった“正義という名の暴力” マーク・ミラーのアメコミ哲学とは?
【オタクに”なるほど”面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】
前回はアメコミの歴史をひも解きながら、アラン・ムーアの批評性とフランク・ミラーの過激さを持ったマーク・ミラーという作家が“もしいま現実にヒーローがいるとしたら、それはどんな存在か?”と取り組んだのが『キック・アス』と紹介しました。それでは、ここからは実際に原作と映画版『キック・アス』を比較しながら、マーク・ミラーのアメコミ哲学を探っていきましょう。
【以下、原作および映画版『キック・アス』の結末に触れています。ネタバレしたくない方は閲覧の中止をお勧めします】
■あらすじ
平凡なオタク青年のデイヴは、ある日ヒーローになることを決意した。ネット通販で揃えた自前コスチュームで、さっそく街へ出るデイヴだったが、なんの特殊能力もない彼は、逆に街のチンピラにボコボコにされてしまう。が、その捨て身の行動がYouTubeにアップされ、ヒーロー“キックアス”として一躍時の人に! やがて彼は、高度な訓練を受けた殺し屋“ヒットガール”と出会い……?
(『キック・アス』帯記載のあらすじより)
本作は2008年から2010年にかけて、全8冊のミニシリーズとして刊行されましたが、なんとシリーズ第1話の発売前から映画化が決定し、原作の執筆と映画の制作が同時に進行しました。そのため映画版は原作者であるマーク・ミラーの承諾のもと、製作・監督・脚本を担当したマシュー・ヴォーンによって、さまざまな改変が加えられています。
今のアメコミ、もっと大仰にいえばアメリカ文化の中心となっているのは映画です。こうした映画での改変は、作品をより一般受けするために必要なブラッシュアップといえるでしょう。しかし、それであるがゆえに、『キック・アス』映画版と原作版の差異がマーク・ミラーの作家性を際立たせる結果となりました。それはごく簡単にいえば“正義と暴力”に対する批評性です。
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