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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 妄想を呼ぶ『こじらせナイト』
テレビウォッチャー・てれびのスキマの「テレビ裏ガイド」第51回

妄想が妄想を呼ぶ『久保みねヒャダこじらせナイト』というテレビごっこ

「そうすると<卒業式で泣かないと~>のところがすごく複雑になってきて、<卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう>って、先生にとってはおかしなセリフなんですよ。けど、自分の中の他人視点なんですよ。こんなに好きな人が行っちゃうんだから普通だったら泣くよねって言うんだけど、でもとどめなきゃいけないから、こんな恋愛は私別に本気じゃないしって思いながら<もっと哀しい瞬間に涙はとっておきたいの>って言って、泣くのを我慢してるってことになるんですよ!」

 久保やヒャダインから「名推理!」「漫画で読みたい!」と絶賛される切ない妄想を能町は即興で繰り広げるのだ。

 このコーナーでは過去にも、岡村孝子の「夢をあきらめないで」を「女性が過去の恋愛を上書き保存していく様を克明にあらわした曲」と分析したり、「ゲレンデがとけるほどに恋したい」の歌詞を読んで「広瀬香美はスキー場に行ったことがない」と看破し、狩人の「あずさ2号」を「山岳部の先輩とのBLソング」と大胆に推論、ドリカムの「大阪LOVER」は「愛されていな女の子が主人公」であるとし、ドラマ化するなら「ヒロインはIMALUで、若手芸人と付き合っている」と盛り上がり、その続編「大阪LOVER、ほんで」まで勝手に作ってしまう。

 その妄想が妄想を呼ぶ、論理の飛躍と説得力のバランスが絶妙だ。

 中でも、YUKIのことを久保が評した「『YUKIは素晴らしい、でも私は醜い』という往復運動こそYUKIの本質」という慧眼は、それに対して「『亜美が好きか、由美が好きか』の往復運動が本質」というPUFFY評と併せて、それだけで新書1冊分になるのではないかという「こじらせ」だ。

 さらに、ヒットソングの“隙間”を狙った恵方巻きソング「SETSUBU・ん…鬼っぽい」や、「大型連休に働きたくない君も好きだよ」を即興で作り上げるのも、気鋭のクリエーター集団ならではだ。

 自分の価値観を世間が許してくれない時、人はこじらせる。そして、考えすぎて、「どうせ私は」と開き直り、自虐や自嘲に向かってしまう。それもいいだろう。しかし、もう一歩進んで、“ヤンチャ”な妄想を武器に、それに向かい合って乗り越えようともがく術を、この番組は教えてくれる。自分の思うまま、世間との違和感を楽しめばいいのだ。

 3人が『こじらせナイト』でしているのは、いわば「テレビ番組ごっこ」あるいは「芸能人ごっこ」だ。前出の文に当てはめれば「自意識にとらわれ、世間でいう“テレビ番組(芸能人)らしさ”に抵抗を感じ、生きづらさを感じているテレビ番組(芸能人)」と言える。彼女たちはそんな違和感や抵抗感を抱えたまま、それ自体を“遊び道具”として楽しんでいる。

 今、テレビに出ているのは、「空気を読む」プロフェッショナルたちばかりだ。番組を成立させるために秒単位の技術で収めていく。しかし、そればかりでは窮屈だ。だから、彼女たちのような“異端”で、アマチュアリズムを保った人たちが支持されるのではないか。思えば、タモリだってそうだ。番組の成立よりも、自分の興味のあるものや目の前のゲームに熱中したりしている姿がしばしば見られるように、いまだに彼はプロになりきるのを拒否してアマチュアリズムに徹している。

 「『笑っていいとも!』が生んだ最後のスター(笑)」である久保も、タモリフリークである能町やヒャダインも、そんなタモリイズムを継承している。妄想とこじらせの往復運動と即興性が、今のテレビに薄れた“いい違和感”を生みだしているのだ。
(文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>)

「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

最終更新:2019/11/29 17:59
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