「国民的大スターの、父の名前を汚すことになる」落ちこぼれの青年が、横綱・白鵬になるまで
#大相撲 #アスリート列伝 #白鵬
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。
2000年、モンゴルから渡ってきた7人の青年たちは、大阪・大東市に連れてこられた。「いったい、これからどんなことが待ち受けているのだろうか……」。日本語も話すことができない彼らの胸は、期待と不安でいっぱいだった。
「摂津倉庫」そこは、アマチュア相撲では有名な実業団だ。彼らは、大相撲の力士になるためにやってきたのだった。この中にいた青年、ムンフバト・ダヴァジャルガルはおとなしく、色白で、か細い青年だった。とても、相撲なんか取れないだろう……誰もがそう思った。相撲部屋の親方やスカウトたちが稽古風景を見学し、モンゴルからやってきた青年たちは次々と入門部屋を決めていくのに、彼の元に近づく親方はいない。仕方なくモンゴルに帰国するためのチケットを取り、両親にも帰国することを電話で伝えた。だが、見るに見かねた同郷の大先輩・旭鷲山の計らいで、彼は宮城野部屋への入門が決まった。
白鵬の、横綱への第一歩はこうして始まった。
父、ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲の横綱選手。モンゴルでは「長嶋茂雄や王貞治ぐらい知られている」という国民的な大スターだ。レスリングのモンゴル代表としても活躍し、メキシコ五輪でモンゴル人初となる銀メダルを獲得する快挙を成し遂げている。一方、母親の職業は医者。遡ればチンギス・ハーンにつながる家系の出身であり、親戚にも大臣や実業家などが多い。幼き日の白鵬は、サラブレッッドとして生まれ育ったのだ。
少年時代は、マイケル・ジョーダンを神様と仰ぎながら、バスケットボールに熱をあげていた白鵬青年。しかし、初めての海外旅行に行けるという軽い気持ちで、来日した。
宮城野部屋に入門すると、細身の青年は、同じモンゴル人の先輩・龍皇関の存在を支えに、厳しい稽古に文字通り歯を食いしばりながら耐えた。相手を指名して続ける「申し合い稽古」や、ひたすらに相手にぶつかっていく「ぶつかり稽古」などで身体を鍛えていく日々。新弟子の頃は、その厳しさについていけず、「兄弟子に髪の毛をつかまれ、引きずり回された」と振り返る。言葉の壁にもぶつかり、何度となく兄弟子から怒られた。
「いまシンドイからと相撲をやめてモンゴルに帰ったら、お父さんに恥をかかせることになる、名前を汚すことになる。それだけは避けなければならない。だったらどうするか。頑張って我慢して、一つでも上位の力士たちと戦って強くなることだ」(『相撲よ!』角川書店)
2001年3月の大阪場所で初土俵を踏んだ白鵬。しかし、デビュー直後の序の口、三段目で一度ずつ負け越している。横綱に昇進した関取で、序の口で負け越した者はいない。つまずきながら、一歩ずつ白鵬はステップを上がっていった。
そんな彼が、なぜ横綱になることができたか? 白鵬は、師匠・熊ヶ谷親方の言いつけを守り、入門した当時主流となっていた欧米式のウエイトトレーニングに手を出さず、四股やすり足などの伝統的な稽古を熱心に行った。そして、先代貴ノ花や、名横綱・双葉山などの相撲をDVDでひたすら研究する。真面目に、愚直に努力を重ね、横綱という最高級の栄誉をもぎ取ったのだ。
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