「ああいう馬に巡り合いたい……」名騎手が忘れられない真の名馬・シンボリルドルフ
#競馬 #アスリート列伝
芝2,500mのレースで争われる有馬記念ならば、タイムはおよそ2分30秒あまり。その一瞬一瞬に、冷静な判断力で馬を操るのが騎手の仕事だ。そんな厳しい競馬の世界で、岡部幸雄は1967年から2005年にかけて38年間、1万8646レースを戦い続けた。G1レースの勝利数は38勝、通算成績は2943勝。この勝利数は、武豊に次いで歴代2番目の数字となっている。岡部は日本競馬会に輝かしい実績を残した騎手だ。
71年からたびたび海外を訪れ、各地の競馬を学んだ岡部。現在でこそ、多くの騎手が海外遠征で修業を積んでいるが、当時まだそんな事例は少数派だった。騎乗実績としては、アメリカを中心に12カ国で騎乗し、98年にはタイキシャトルに騎乗して仏・ジャック・ル・マロワ賞に勝利。このほかにも、彼は乗馬フォームや調教時のジーンズの着用、エージェント制度の導入など競馬にまつわるさまざまな事柄を学び、日本に導入していった。保守的な日本競馬会において、岡部の導入する斬新なスタイルを「アメリカかぶれ」と罵る声も上がったが、現在では、その多くが日本でも定着しているのだ。当代一のスタージョッキーである武豊ですら、インタビューで「岡部さんの偉大さがつくづくわかりました。僕があの人の影響をすごく受けていた、ということにも気づいた」と、その影響を語っている。
そんな岡部にとって、忘れられない馬が「皇帝」の異名を付けられた名馬・シンボリルドルフだ。
84年の皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3冠をはじめ、有馬記念、ジャパンカップ、天皇賞など、圧倒的な強さでG1レースを手中に収め続けたシンボリルドルフ。そのすべてのレースで、鞍の上にまたがったのが岡部だった。彼は38年間の長きに渡る騎手生活を過ごせた理由として、シンボリルドルフとの出会いを語る。
「また、ああいう馬に巡り合いたい。もう一度、ああいう馬をつくりたい――。ルドルフに出逢ってからは、そんな想いに取りつかれてしまったのである」(『勝負勘』/角川oneテーマ21)
では一体、シンボリルドルフの何が特別だったのだろうか?
例えば84年の日本ダービー。第3コーナーを回って、第4コーナーを過ぎても、シンボリルドルフの位置取りは7〜8番手。いくら岡部がムチを入れても、シンボリルドルフは本気で走ろうとはしなかった。最後の直線になり、焦る岡部は強めのムチを入れる。しかし、皇帝はまだ動こうとしない。だが、「さすがのシンボリルドルフもここまでか……」と誰もが思った残り400メートル。突如としてルドルフのエンジンに火がつくと、あっさりと先行馬を抜き去って、先頭でゴールに飛び込んでしまった。
レース後にビデオを見返した岡部は、残り400メートルの地点が「仕掛けのタイミングとしてピッタリだった」ことに驚く。騎手ではなく、馬が勝手にレース展開を読み、勝利までの最短距離を計算していたのだ。
「ルドルフは私の指示をそのまま聞くのではなく、自分でレースをつくったのである。そして私は、それによって理想の仕掛けのタイミングを学ぶことができた」(『勝負勘』)
シンボリルドルフが出走したレースは16戦。岡部の生涯戦績のわずか1000分の1にも満たないものだ。しかし、若き日の岡部にとって、ルドルフとともに戦った16戦で得た喜びや悔しさが、その後の騎手人生を送るための大きな財産となった。そして、彼は歴史に名を残すトップジョッキーに成長していく。おそらく岡部にとって、後にも先にもルドルフ以上の馬はいなかっただろう。
引退後、岡部は、北海道に暮らしていたシンボリルドルフの元を訪れている。いつも、気性が荒いシンボリルドルフは、傍に来た人間に対して悪戯をするのだが、岡部が近づいていってもおとなしく過ごしていたという。2011年、「皇帝」の異名を持つ名馬は30歳でその生涯に幕を閉じた。
(文=萩原雄太[かもめマシーン])
●おかべ・ゆきお
1948年群馬県生まれ。84年、シンボリルドルフで無敗のクラシック3冠達成をはじめ、数々の名馬でGI制覇を成し遂げた。その見事な手腕は「名手」と称される。85年からほぼ毎年、海外のレースに参戦する国際派ジョッキーとしても活躍。競馬関係者からは畏敬の念をこめて「ジョッキー」の通り名で呼ばれる。05年3月20日、「生涯一騎手」の人生を貫き、38年間の騎手生活に終止符を打つ。
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