二度のバッシングと名将の称号 サッカー岡田武史監督が証明した“日本人の実力”
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アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。
日本代表を初めてワールドカップに連れて行ったのも、南アフリカ大会で決勝トーナメント進出をもぎ取らせたのも彼だ。先日、中国リーグでの監督退任を発表した岡田武史監督。彼の日本サッカー界に対する功績は計り知れないだろう。しかしながら、時にはバッシングの嵐が吹き荒れ、その解任が声高に叫ばれたこともある。いったい、岡田の日本代表監督としてのキャリアとはどのようなものだったのか? 福島大学・白石豊との共著『日本人を強くする』(講談社)から、もう一度見直してみよう。
1997年、W杯フランス大会アジア予選の途中に、加茂周から引き継ぐ形で監督に就任した岡田。まだほとんど世間に名を知られていなかったものの、次の試合までは一週間しかなく、監督を任せられる人材はコーチを務めていた岡田しか存在しなかった。急場しのぎの就任を不安視する声もあったが、絶不調だったチームは見事立ち直った。「ドーハの悲劇」から4年、見事予選大会を勝ち抜き、本大会へと駒を進めた日本代表を、世間は「岡ちゃんフィーバー」で迎え入れた。
しかし、フランス大会ではアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに対して3戦全敗。盛り上がった世間からの岡田への信頼は、「経験不足の監督」として手のひらを返すようにひどいバッシングへと姿を変える。「人間不信に陥るほど」と、岡田は当時のバッシングのすさまじさを語っている。
その後、岡田はコンサドーレ札幌の監督に就任し、J2チームをJ1へと導く。さらに、横浜F・マリノスの監督に転じると、Jリーグ2連覇の快挙を成し遂げた。当時、岡田の方針は、ロジカルにサッカーを思考すること。当初、その試みは成功を収めていた。しかし、その雲行きはだんだんと怪しくなっていく……。
「2005年あたりから何か引っかかるようになった。理詰めでサッカーを分析し、あたかも将棋の駒のように選手を動かすことに対して、私の中で“こんなのでいいのかな”という思いが湧いてくるようになったのである」
選手は岡田の顔色をうかがい、指示を待ちながらプレーするばかり。そんな方法では、強いサッカーを生み出すことはできない。岡田の疑念が膨らむにつれて、マリノスの成績は下降。2連覇を果たしたチームは、下位に低迷するようになってしまったのだ。06年、岡田はマリノス監督を辞任する。
そして、07年暮れ、またしても岡田には“急場しのぎ”の役割が回ってきた。脳梗塞によって倒れたイビチャ・オシムの後任として、再び日本代表監督就任の打診を受けたのだ。「チャレンジしてみたかった」という岡田は、そのオファーを受諾。次のW杯南アフリカ大会までは3年の時間があった。
岡田は、自分の手腕に絶対の自信を持ちながら采配を振るうタイプの監督ではない。悩みながら、苦しみながら、ベストな采配をギリギリまで考え抜いていく。
「指導者としての能力を考えた時に決してそんなに大したことはないんです。(中略)走りだしてみたら、いろんな人が助けてくれて、今に至っています」
岡田は、W杯南アフリカ大会での目標を「ベスト4」に掲げた。これまで日本が出場したフランス大会、日韓大会、ドイツ大会で、日本代表の最高位はベスト16。その目標は大風呂敷だった。だが、岡田は本気だ。体格で世界の選手に劣る日本人が互角に闘い抜くために、岡田は体操競技や陸上競技など、他ジャンルのスポーツの知識を活用。骨盤の使い方を矯正することで、日本人の身体で戦えるサッカーを鍛え上げた。さらに、代表招集期間以外には、選手たちに手紙を書き「本気でベスト4を目指そう」というメッセージを送った。岡田のその姿勢に、選手たちも次第に感化されていく。
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