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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 史上最低のロックフェスって?
『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』公開記念 白井貴子インタビュー

尾崎豊、BOOWY、ブルーハーツが豪雨の中で競演! 地獄の第1回フジロックよりヒドい、史上最低のロックフェス

IMG_7661.jpg撮影=後藤秀二

 映画では、このあとも悪条件下でのパフォーマンスが続いていく。BOOWYのギタリスト・布袋寅泰は立てていた髪が、豪雨で見事にズタズタ。それでもギターをかき鳴らす。尾崎豊は渾身の歌の中で、ステージの床にキスをしている。スタッフの決死の尽力のおかげか、音響面でのトラブルはかなりの部分で対応されていったようだ。それについて、白井が微笑みながら語る。

「私、ロック業界では、特に女の子に関しては<線路引き>だと言われてたんですよ。それである人が『この時の天候や出演順が神の配剤のようだった』とおっしゃったんですけど、すごく言い当ててるなと思いましたね。線路引きの私の時は豪雨になって、それが(渡辺)美里ちゃんの頃からは雨がやみ始め、トリの佐野(元春)さんの時には、みんな晴れ晴れとした笑顔になって(笑)。朝日も上がる中<SOMEDAY>が響き渡って……すごいなって思いました」

 こうしてフェスは、そして映画は感動的なクライマックスに向かっていく。ただ、映画の観覧に際しては、当時の時代状況を踏まえておいたほうが、理解と認識をより深められるはずだ。

 まず感じるのが、当時のフェス文化がいかに未成熟だったかということ。もっとも80年代には「フェス」という呼び名自体がなく、音楽ファン全般のそれに対する思い入れも今ほど強いものではなかった。ちなみに映画のキャッチコピーは「史上最低で、最高のロックフェス」だが、劇中で「フェス」という呼び方は一度もされていない。代わりに場内アナウンスで「ロック・イベント」と言われるシーンがある。

bc03xx.jpg豪雨の中で歌う、白井貴子。
(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会

 そしてこの頃は主催者も参加者も、さまざまな面で意識が浅かったのだろう。冒頭で書いたように、観客の多くは軽装で、傘を使用。あらかじめ荒天が予想される可能性があれば、今であれば主催者側は来場者に注意を促す告知をするものだが、そうした動きもなかったようだ。そして映画のナレーションの中には「中止はありえない」というひとことがある。こんなにまで過酷な状況になっても開催を強行するしかないイベントだったということ自体が、今では考えられないし、ありえない。

「なんで中止にしなかったかは諸説あるんですよ。まずは3万人のはずが、7万2000人という予想を上回る数のお客さんが来てしまったこと。あとはオールナイトだから(客を輸送する)バスの運転手さんは熊本市内に戻ってしまって、朝まで戻ってこない。携帯電話もない時代だから、深夜には連絡も取れないんです。それに、仮にお客さんが市内に戻ったとしても泊まるところもないから、ここにいてもらうしかない。今なら考えられないですよね」

 ほかにも、これも現在では通例になっているタイムテーブルの発表が行われておらず、観客は次に誰が出てくるのかを知らずに、お目当てのバンドをひたすら待つしかなかった。とはいえ、これは当時のイベント文化がそうしたもので、タイムテーブルを客側に伝えておくという常識自体がなかったためだ。現に、富士の天神山で行われた第1回目のFUJI ROCK FESTIVALでも、タイムテーブルは事前にしっかりとした形で観客に周知されていなかった。

 そう、この映画を見て多くの人が連想するのが、やはり悪天候に見舞われ、2日間のうちの1日が中止になった初回のFUJI ROCKのことだろう。その開催は、このBEATCHILDのちょうど10年後である1997年のこと。思えばFUJI ROCKはその初回の反省があるからこそ、第2回以降から今に至るまで、日本の音楽フェスを牽引する存在となっていけたわけだが……。ひとつ感じるのは、このBEATCHILDの失敗をちゃんと踏まえていれば、日本のフェス文化はもっと早く定着し、FUJI ROCKの苦々しい第1回目もなかったのではないかということ。それだけBEATCHILDのことは当時あまり報道されなかった。筆者もこのイベントの惨状は時々話に聞く程度で、現実的にどれだけひどい状況だったかを伝えたメディアは極めて少なかったと記憶している。

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