「第2の原子力ムラ」と化した製薬業界の闇と、寄生する“マスゴミ”の醜態
#出版 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
「私が会ったとき、A君は人工呼吸器も外れ、話ができる状態になっていました。彼いわく、意識を失ってる間に“暗いトンネル”を3回ほど通ると長い“川”に出て、船でその川を遡った、と。すると向こう岸に“花園”が見えたので、船を降りてそこで遊ぼうとした。ところが、知らないお爺さんが出てきて『お前はXか』と聞かれた」
Xというのはその少年の名前だ。話を続ける。
「話を聞いたA君のお母さんは、その容姿や動作、話し方が、自分の祖父に非常に似てることに驚き、A君に古い写真を見せました。A君はそれまで、曾祖父と会ったことも写真を見たこともなかったはずなのに、写真を見るや『この人だ』と言ったのです」
人は死を恐れる。だから死の直前、死の恐怖と苦痛を緩和するために、脳はその主に一種の“夢”を見せるのだという考え方もあるそうだ。
だが、死の淵から生還した多くの人たちがいっていることにも何らかの“真実”があるのではないだろうか。死ねば無である。そう考えている私でも、ちょっぴり死後の世界を信じたいと思っている。ベッカー氏はこういっている。
「先に亡くなった肉親らがお迎えに来るのだから死はまったく怖くない。それを知れば、残される人も『いずれ愛する人のところに行ける』と安心し、死に対する恐怖が減ります。肉体は死んでも、故人の意識は別の世界に行くのだという気持ちになれば、日本でしばしば起きる、遺族の後追い自殺などの悲劇もなくなるでしょう。病気と闘うのは良いが、死と闘おうとしても勝てません。少々の延命はできても決して死は直せないのだから」
この記事を取り上げようと思ったのは、私と一緒に仕事をしていた講談社の元『フライデー』編集長で現・編集総務局長の谷雅志さんが亡くなったからでもある。享年58歳。8月16日の通夜に行ってきたが、講談社関係者はもとより、彼の人脈の広さを示すように、門前仲町駅近くの富岡斎場は人であふれた。
現代の「音羽の杜から」で藤田康雄編集長はこう書いている。
「谷雅志さんが亡くなった。享年58歳。谷さんは新入社員時代の小誌デスク。一番印象に残っているのは、渡辺謙氏インタビュー。取材窓口の対応はけんもほろろ。谷さんに相談したら、2~3本電話をして、あっという間に取材のアポをとってくれた。その人脈は政界、財界、芸能界、至るところに張り巡らされて、色んな人を紹介してくれた。どうすれば谷さんのような編集者になれるのか、途方に暮れた新人時代を思い出す」
この歳になると、自分より若い人の死は応える。
ポストで小沢一郎氏のインタビューを多くしていた渡辺乾介氏も亡くなった。享年69歳。彼とは若い頃よく一緒に遊んだ。当時から政界通で、多くの人脈をもっていた。
宮崎吉政さんのところの秘書をやっていた今村富也さん、中曽根康弘総理の秘書だった築比地さんたちと一緒に、赤坂、銀座を飲み歩いたものだった。何をやっても面白い時代だった。
そういえば谷さんの通夜でフライデーの編集者からこういわれた。
「元木さんが以前、フライデーが休刊するかもしれないと書かれたので、社外から問い合わせが多く来て大変だったんですよ」
私の真意は、休刊しないよう頑張ってという励ましのつもりだったが、編集部には少し迷惑をかけたようである。ここでお詫びしておく。
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