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メディアの構造云々を語らずとも──喰えないライター稼業の覚悟を知る『竹中英太郎記念館・父子展』探訪

 そうした散逸した資料は、時折世の中に姿を現す。労の生原稿などが古書店に出品されることもまあれにはあるのだ。しかし、かなり高額なものになる場合がほとんどで、記念館でもなかなか購入は難しい。ところが、そうした資料を入手して「これは、ここにあるべき」と寄贈する人もいるのだとか。そうして、記念館には父子二代のさまざまな資料が、少しずつ集まりつつあるのだ。

 小さな記念館に満ちあふれる父子二代の情熱、あるいは革命への狂疾は、とても一度の訪問ですべてを受け止めることはできまい。次第に充実する資料もそうだし、すでに収集されている映像資料を見るだけでも、膨大な時間を必要とする。ここは、文筆で口に糊する者にとってのアジールではないかと、筆者は感じた。蹉跌を繰り返しても、倒れることなく立ち続けた先達がいるというのに、なぜ、早くもあきらめることができるだろうか。

 それにしても、労のような文筆を成すのは難しい。未完に終わった「実践ルポライター入門」は、その最初に、読みやすい文章の実践として「泣き別れをしない」ことを挙げる。これひとつをとっても、なかなか成すのは難しい。

 今は、さらっと社会を「批評」したフリをする論客たちが脚光を浴び、それに追いつけ追い越せとばかりに、最初からなんかの論客のように振る舞うヤツらが跋扈する時代だ。ここ数年でレーベルの増えた新書に至っては、「専門家」の話したことをゴーストライターがまとめて、センセイの名前で出版するのが当たり前。そんなものが売れている時代に、必死に取材して調べて書くルポライターが、そう簡単にうだつを上げられるはずもない。だが、Googleで検索して得られる情報がすべてだという勘違いはやがて廃れる。だからやっぱり、批評家気取りに堕落することなく、取材しなくては書けない、を貫かなくてはならないのだ。記念館で吸い込んだ空気で「覚悟」を新たにしながら、そう思った。
(取材・文=昼間たかし)

湯村の杜 竹中英太郎記念館
<http://takenaka-kinenkan.jp/>

最終更新:2013/08/14 19:30
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