100時間に及ぶ独白から浮かび上がる、“連続ピストル射殺事件犯”の素顔『永山則夫 封印された鑑定記録』
#本 #凶悪犯罪の真相
翌春、福祉事務所の手によって母の暮らす青森に移り住むことができたが、極貧生活は変わらず、いじめによる不登校や兄からのリンチなど、苦しい環境は続く。
永山の独白と向き合うことで、著者である堀川が行き当たったのは「家族」というテーマだった。明らかに永山の成育過程においては、愛情となるものが欠落している。事件を引き起こす因子の一つとなった彼の病的な被害妄想は、家族からの愛情や承認といった当たり前のものが欠如したことと無関係ではない。
集団就職で上京した永山は、西村フルーツパーラーの店員、牛乳配達、荷揚げ人夫などの職を転々としながら、自殺念慮に苛まれる。石川医師が確認しただけでも、自殺未遂は18回。また、外国船に不法乗船し、日本脱出を企図するも、あっけなく船員に見つかり、横浜に追い返されてしまう。
事件の一年前、死ぬために永山は青函連絡船に乗った。
永山「もう一度、最後に網走、見たかったんだ。あのね、姉さんと一緒に海辺に行ったでしょう。俺、網走港に行きたかったんだ。セツ姉さんと、海っていうか、貝殻あって、もうそこしか憩うところがなかったんだな……。どこでもよかったんだ、きっと。どこか静かなところ……」
しかし、金が底をつき、網走にもたどり着けなかった永山は、青森の実家に戻る。「死ぬなんて言ってて、また帰ってきたじゃないか!」。母は、甲高い声で永山を罵った。東京に戻った永山はふとしたきっかけで米軍基地に忍び込み、後に犯行に使用するピストルを入手した。社会からも、日本からも、そして命からも逃げきれなかった永山は、結果的に4人を殺害した。
その精神構造を見ながら思い出すのは、例えば秋葉原事件を起こした加藤智大だ。加藤は食うや食わずの貧困ではなかった。しかし、徹底的に社会からの孤立を恐れ、しかしその承認は断ち切られ、秋葉原に向かってトラックを走らせた。
「社会的な死、孤立の恐怖は耐えがたく、それよりも肉体的な死の方がまだ救いがあると思えた」
「刑務所で地獄を見た後に孤立している世の中に放り出されるくらいなら死刑のほうがマシ」
(『解』加藤智大著、批評社)
「同じ青森」というのは、こじつけがすぎる。だが、常に社会からの孤立を恐れた加藤と、常に社会からの逃避を夢見た永山には、どこか共通する感情があったのかもしれない。
凶悪殺人事件が発生すると、「理解不能なモンスターである」と断罪する声と、それに反対して「モンスターではなく、人間だ」という2つの声が聞こえてくる。
「彼ら」が起こした事件は、「我々」に、まったくといっていいほど理解できない。しかし、絡まった糸も始めはまっすぐだったように、「彼ら」は初めから「我々」と異なっていたわけではない。生きていく過程で、「彼ら」のレールはだんだんと社会からそれていき、いつの間にか取り返しのつかない犯罪が引き起こされる。事件から45年を経た今でも、それは変わることはないだろう。本書が丹念に追った永山の長い独白から導き出されるのは、ゆっくりと、しかし確実にレールがそれていく過程だった。
死刑を執行された永山の遺骨は、オホーツクの烏帽子岩付近に散骨された。そこは、永山が長姉セツから、人生のうちでほとんど唯一愛情を与えられた場所だった。
(文=萩原雄太[かもめマシーン])
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事