資生堂、中国事業の失速で業績不振と大混乱 ネット通販主導の社長は2年でクビ
#中国
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資生堂、中国事業の失速で業績不振 ネット通販主導の社長は2年でクビと大混乱 – Business Journal(3月19日)
(「ワタシプラスHP」より)
2012年4月21日、資生堂はネット通販サイト「ワタシプラス」を開始した。資生堂の製品2600アイテムをネットで買えるほか、動画を使って美容部員からカウンセリングを受けることもでき、化粧品のネット店舗の機能を備えている。
ネット通販への進出はほかの業界では当たり前のことだが、資生堂にとっては不磨の大典に相当するビジネスモデルの大転換を意味した。満を持して勝負に出た末川久幸社長(当時53)を、名門企業の若きエースといって経済紙・誌は大いに持ち上げた。
だが、末川社長の挑戦はあっけなく挫折した。3月31日付で社長を退任し、相談役に退くと共に、前田新造会長(66)が4月1日付で社長に復帰する。末川氏は11年4月、52歳の若さで社長に就いたが、わずか2年で退任という、異例の事態となった。
末川氏は退任理由について「2月ごろから体調に不安を感じ、社長として今後、全力疾走できないと判断した」と説明したが、「四半期ごとに業績を下方修正せねばならず、それが精神的に重くのしかかっていた」と、業績不振が原因だったことを認めた。事実上の“解任”とする見方すらある。社長が「自分で考えて行動したくても体力的に続かない」(末川本人)なら、辞任するしかないだろう。
辞任の背景には、海外事業の柱としてきた中国事業の失速がある。沖縄県・尖閣諸島の国有化で中国の反日感情に火がつき、資生堂製品は買い控えに遭った。現地では資生堂イコール日本というイメージが強かっただけに、その影響は大きかった。12年7~9月は前年同月比10%の減収、10~12月は同20%近い減収になった。このため13年1月末に主要拠点の1つ、鎌倉工場(神奈川県鎌倉市)の閉鎖など大規模なリストラを余儀なくされた。
中国の販売の失速ばかりがクローズアップされているが、より深刻なのは国内の化粧品事業だ。売上高は6年連続で減少し、12年3月期は3538億円と6年間で1000億円近く目減りした。13年3月期も、依然として落ち込みに歯止めがかからない。
資生堂が開示している国内化粧品販売会社の売上高によると、12年4月は前年同期月で26%減少した。12年で前年実績を上回ったのは9月と10月の2回だけ。ほかの月はマイナスだった。
資生堂の販売チャンネルが競争力を失ったことを、数字が如実に示している。だから、ビジネスモデルの大転換に踏み切ったのだ。
1923(大正12)年に構築した資生堂化粧品連鎖店(チェーンストア制度)は、資生堂の聖域である。今でいうボランタリー・チェーンだ。1915年に事業を受け継いだ創業者、福原有信氏の3男の信三氏は、経営の主軸を創業事業である医薬品から化粧品に切り替えた。化粧品を売るために全国にチェーンストアを広げていった。
1927(昭和2)年に株式会社資生堂が設立され、信三氏が初代社長に就任した。ビューティコンサルタントの前身ともいえるミス・シセイドウの派遣や、チェーン店と化粧品を愛用する女性を会員とする「花椿会」を発足させたりした。資生堂のビジネスモデルは大正から昭和初期にかけて完成した。信三氏は“中興の祖”と呼ばれた。
化粧人口が急激に増えた高度成長時代には、このビジネスモデルは比類なき力を発揮した。日本全国に花椿と唐草模様の看板を掲げた販売網を築くことで業績を伸ばした。専門店チェーンと百貨店の化粧品売り場を2本柱に、トップメーカーとしての地位を不動のものにした。
●資生堂を支えたチェーンストア制
しかし、その成功体験があまりに大きすぎたために、流通機構の激変に即応できなかった。97年に、販売店に定価販売を順守させる再販制度が全廃されたことから、化粧品の価格競争が激化した。ここ10年間は低価格商品を多く取り扱うドラッグストアが、化粧品&トイレタリー(洗面用具など)製品の販売チャンネルの主流になった。
調査会社の富士経済によると12年(暦年)の国内化粧品売上高は、前年比ほぼ横ばいの2兆2769億円。ピーク時の07年(2兆3423億円)を654億円も下回った。販売チャンネル別ではドラッグストアが6517億円で国内市場の28%を占めた。ネット通販の普及で通信販売は3089億円で化粧品市場の13%を占めるまでになった。ドクターシーラボなど、通販に軸足を置く化粧品メーカーの伸びが著しい。
流通網の激変に伴い、資生堂の国内売り上げに占める専門店の比率は、90年代の40%超えから25%程度にまで縮んだ。専門店は経営者の高齢化や地域商店街の衰退に加え、若い女性に受け入れられないという深刻な悩みを抱えている。若い女性から資生堂の商品は「おばさんブランド」と酷評されている。
経営陣は手をこまねいていたわけではない。創業者の孫の福原義春氏(社長在任87~97年、現・相談役)は10年間社長をやり、97年に弦間明氏(同97~01年)に社長の座を譲った。再販制度全廃の影響が大きいことに危機感を抱いた福原氏は、01年に池田守男氏(同01~05年)を社長に起用した。ここから資生堂の大改革が始まる。
池田氏は、牧師になるため東京神学大学神学部で学んだ、異色の経歴の持ち主。歴代5人の社長に秘書や総務の責任者として仕え、経営中枢を歩いてきた。福原社長時代の後半に取締役秘書室長となり、側近として重きをなした。
池田氏はチェーン店のテコ入れ策を打ち出した。当時、チェーン店は全国に2万5000店あったが、レジ一体型の販売時点情報管理(POS)端末を導入した。横並びだったリベート制を見直し、売り上げに応じて差がつくようにした。他の業界ではとうの昔に取り入れている競争原理に基づく区分だが、資生堂の歴史では画期的なことだった。
池田氏は社長退任後、キリスト教系の東洋英和女学院の理事長・院長となり、聖職者になるという、若い頃の思いを果たした。
池田氏が後継として起用したのが前田新造氏(同05~11年)。副社長、専務、常務14人を飛び越えて平取締役からの大抜擢で、まさにサプライズ人事だった。前田氏は経営企画室長として、池田改革の参謀役を務めた。まさに、前田氏は池田改革の第2走者としてバトンを託された。
前田氏は中国市場にシフトした。彼が社長に就任してから、中国での事業は年率20~30%の勢いで伸びた。12年3月期に全売上高の13%に当たる891億円を中国での売り上げが占め、地域別では日本、米州に次ぐ規模となった。中国市場はドル箱となった。
「アジアを代表するグローバルプレーヤー」を目標に、18年同期には海外の売り上げの比率を50%以上に高める中期計画を掲げ、成長エンジンは完全に海外市場に移った。
次の成長ステージに入るために、改革のバトンを渡された第3走者が末川久幸氏だ。末川氏は経営企画部長として前田氏の参謀役を務めた。池田氏の参謀役だった前田氏が社長になったのと、まったく同じパターンである。
末川氏は3代にわたる資生堂一家である。祖父は資生堂の専務、両親も、そして末川氏の妻も資生堂に勤めていたという。
●全国の加盟店がネット直販に猛反発! これが引き金に
大正時代から続く販売組織、チェーン店を基本とするビジネスモデルからの大転換。これが末川社長の使命だった。資生堂の成長を支えてきた全国各地の専門店への配慮から、資生堂がエンドユーザーに直接販売することは、ご法度だった。通販はタブー視されてきた。
だが、国内の販売チャンネルが競争力を失った現在、ネット販売への参入は避けて通れない道だった。新社長に就任した末川氏は、11年4月からスタートした第2次3カ年計画の柱に、ネット通販事業への参入を据えた。1年の準備期間を経て、12年4月、ネット通販サイト「ワタシプラス」を開始した。
予想されたことだが、専門店からの反発はすさまじかった。トラブルは開始後まもなく発生した。
「オンラインショップで、今すぐお買い物してみませんか」。資生堂は、登録した会員に対して、こんな内容のメールを配信。化粧品販売店にしてみれば、長年築いてきた顧客を資生堂が奪おうとする行為に映った。これに激怒した化粧品専門店の業界団体である全国化粧品小売業協同組合連合会は、組合員に対して新制度への移行作業を中止するよう指示を出す寸前までいった。
資生堂は慌ててメールの記述を見直したが、結局、ネット通販は出足からつまづいた。ネット通販の売り上げが伸び、化粧品専門店の売り上げが減れば、リアル店舗とネット通販の対立が再燃する可能性は高かった。一口にビジネスモデルの転換というが、双方とも生き残りがかかっているだけに口で言うほど簡単ではないのだ。
その結果、ネット通販を主導してきた末川氏を見捨てて、あっさりクビにし、前田氏が再登板するという今回の変則的なトップ人事となった。
しかし、これまで、前田氏と末川氏が二人三脚で改革に取り組んできたことは明らかだ。経営は結果責任である。トップとして結果を出せなかったと判断したのであれば、末川氏だけでなく、前田氏も一緒に引責辞任するのが筋である。歴代社長である福原、弦間、池田の3人の相談役に報告して、時計の針を逆に戻す人事が了承されたが、結局、人事権を握っているのは福原義春・名誉会長兼相談役なのではないのか。
資生堂の社長交代で浮かび上がったのは、名門という、豊かなイメージとは裏腹な、極端な人材不足である。町内会でもあるまいし、仲間内でトップの椅子をタライ回しにして良い結果が出るほど、経営は甘くはない。
(文=編集部)
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