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小田嶋 隆の「友達リクエストの時代」

故郷の友は「遠くにありて思う」もの 世界と生き方で棲み分けされる友達関係

【サイゾーpremium】より
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SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

 1カ月ほど前、仕事の関係で「面影ラッキーホール」というファンクバンドのメンバーと話をする機会があったのだが、その時、リーダーのACKYさんという人が紹介してくれた話が面白かった。

「リアルなヤンキーと間近で会える機会って、免許の更新の時ぐらいしかないですからね」

 と、彼は言っていた。ACKY氏によれば、ホワイトカラーとブルーカラーでも大卒と高卒でもよいが、社会的な階層分化は、その中に住んでいる我々の意識とは無関係に、常に、粛々と進行している。だから、押されている烙印の違う人間同士は、そもそも顔を合わせる機会を持たない。

「社会っていうのは、そういうふうに設計されているんですよ」

 至言だと思う。

 私自身、昨年の12月に免許の更新で江東区の運転免許試験場に出向いたばかりなのだが、違反者講習の教室には、たしかに、ふだん出会うことのないタイプの人間が勢揃いしていた。背中にデカい動物模様の入ったジャンパーを着ている兄ちゃんや、金髪ツケマの小年増が、私の生活圏の中にまったく住んでいないというのではない。が、普通に暮らしている限り、私の生活は、彼らとは無縁なレイヤーの上で進行していくことになっている。だから、普段は視界に入ってこない茶髪のオヤジやラメ入りのブラウスを羽織ったおばちゃんが、思い思いに座って化粧を直していたり、携帯をいじくっていたりする姿は、やはりなんというのか、新鮮な驚きだったのである。

 免許証の更新手続きは、年齢、学歴、年収、職歴といった個々人の属性は一切勘案せず、東京中の自動車運転免許証所有者を、誕生日という一点で機械的にソーティングした上で招集している。だから、更新手続きが行われる運転免許試験場に集った人間たちには、生まれ月以外に、共通項がない。

 ともかく、そうやって無作為抽出の人口統計データに最も近い人々に直面してみて、改めてはっきりするのは、我々が「分離されている」ということだ。

 特に大学を出た人間は、地域から分断される。このことはぜひ強調しておきたい。我々の社会では、エリートコースと呼ばれる人生を歩むことは、生まれた町の地域社会とは別の枠組みに組み入れられることを意味しているのである。

 昔、英文学の教授がこんなことを言っていた。

「日本の男が、会社がハネた後にも同僚と飲んで歩くのは、地域社会が崩壊しているからです。イギリスの会社員は、一旦自宅に帰ってから、改めて地元のパブに飲みに行きます」

「地元のパブには地元の仲間がいます」

「イギリスでは、子どもの時からの仲間と一生涯付き合うのが普通なのです」

 もっとも、イギリスにしばらく住んでいたことのある人間の意見は少し違う。

「うーん。一生地元の友だちとツルんでいるっていうのは、ワーキングクラスの話じゃないかなあ」

 彼によれば、シティーの中心部で働いているホワイトカラーの連中が、どういうパブで飲むのかは、話が別らしい。

「ほら、出身校とか、なんかのクラブとか、そういうのが拠点だと思いますよ。でもまあ、どっちにしろ会社の同僚と飲み歩くことはありませんね」

「というよりも、ワーキングクラスとミドルクラスはそもそも住んでる町が違いますから」

 イギリスの社会がどうなっているのかは知らないが、我々の国の社会は、同じ町に別のレイヤーを重ねるカタチで形成されている。つまり、我が国では、階層別に住む町が違うというほど露骨な分化は進行していないものの、同じ町に住んでいる人間が、階層別に、行きつけの店や集まる場所を変えることで、世界と生き方を棲み分けているのである。

 だから、地元の区立中学校を卒業すると、地元のコミュニティとの縁は、その時点でとりあえず切れる。で、高校生は、より広い地域の、学力においてより近いクラスメイトと出会う。というよりも、もう少し露骨ないい方をするなら、生まれてからしばらくの間、地域で分類されていた子どもたちは、15歳を過ぎると、学力という基準で再分類されることになるのである。

 高校でも大学でも、もちろん友だちはできる。

「同程度の学力の同級生」や「よく似た文化的背景から出てきた子ども」である、高校・大学の仲間は、「同じ町に住んでいる子ども」であった小中学校の友だちよりは、ある意味で、付き合いやすいかもしれない。そういう意味では、生徒たちを学力別に再分類することが、我々を分離していると、一概に決め付けることはできない。

 ただ、「学力」や「社会的な分類」や「階層的な同質性」を基準に集められたり分離されたりする中で形成される人間関係は、やはり、脆いといえば脆い。卒業してそれっきりになってしまうケースも多いし、なにより、このシステムに乗っかっている限り、進学、就職、退職、転職、結婚、出産………と、人生のステージが進むたびごとに、友だちを選び直さなければならなくなる。

 さて、進学校の高校に進学して、大学を出た人間が地元から分断されるのだとして、では、そうでなかった生徒たちはどうしているのだろう。

 簡単に答えの出せる質問ではない。

 他府県から東京の大学に進学してきた人々の立場は、わりあいにはっきりしている。彼らは、かなりの程度、田舎を捨てる覚悟を持っている。

 なにより、就職に際して、東京に本社のある一流企業を志望すること自体が、そのまま、生まれ故郷での生活を断念することを意味している。だから、彼らの出世双六の中では、スタート地点の故郷は、比較的早い段階で「遠くにありて思うもの」に設定し直されているわけだ。

 東京出身の人間である私のような者の立ち位置は、多少歯切れが悪い。地元の友だちは、いないといえばいない。が、地元に住んでいる以上、顔を合わせれば挨拶ぐらいはする。でも、友だちではない。それはお互いにわかっている。

 大学を出て5年ほどたった頃だろうか、地元の商店街を歩いていて、10人ほどの男女の集団に声をかけられたことがある。

「おい、オダジマ」

 振り返ると、中学時代の同級生だ。クラス会というほどのものでもないのだが、彼らは、時々集まって飲んだり遊んだりしているようだった。で、その日は、私もゲスト待遇で参加することになった。ゲスト待遇といったのは、集まったメンバーの中で、大卒は私だけだったし、結局、私は、最後まで「お客さん」扱いだったからだ。

 話が合わないとか、邪険にされたとか、そういうことではない。それなりに楽しく飲めたし、旧交をあたためたといえばそういえないこともない。ただ、心外だったのは、私が終始「優等生」という役柄を担わねばならなかったことだ。

 何を言うんだ。数学のO崎に一番たくさん殴られたのはオレだぞ、と私は言ったが、

「それだけ目をかけられてたってことだろ」

 と、その言葉は一蹴された。しかも、私は、登下校の道筋でいじめられたことになっている。

「えっ?」

 話を聞けば、覚えている。学校の帰り道に、電柱ごとにじゃんけんで負けた者が全員の鞄を持って歩くゲームが流行ったことがあって、私はそのゲームでよく負けていたのだ。

 布製の肩掛け鞄を10個もかけられて、ふらふらして歩いた記憶もある。でも、あれは単なるじゃんけんのゲームで、いじめではない。

「犬の糞を踏ませたこともあるぞ」

 そう。確かに踏んだ。でも、あれもゲームだった。要するに私が偶然ジャンケンで負けたという、それだけの話じゃないか。

 なのに、彼らの記憶の中では、私が優等生で、犬のクソを踏まされるタイプのいじめられっ子だったということになっている。

 私は、かなり執拗に抗弁したが、多勢に無勢、相手にならなかった。

 こんなふうにして、分断は進む。

 違う道を歩くことになった昔の同級生たちは、互いに、記憶を再編成していたりする。

 だから生まれた町に友だちはいない。

 友だちはたぶん回線の向こう側にいる。

小田嶋 隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気 ~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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最終更新:2013/03/03 09:30
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