【『ニコ生ナックルズマガジン』出張版】東京不良少年史1990年代初頭~「関東連合」の復活と台頭
#闇社会 #関東連合 #久田将義
1970年代に結成された関東連合だが、数代目あたりまでは会長が存在していたものの、80年代半ばから90年代にかけては有名無実化していた。僕は二代目会長のA氏にインタビューした事があったが、彼は50歳半ばでそのあたりまでは幹部会議などを開いていた。しかし、次第にチーム単独ごとの活動になっていき、関東連合としてのそれはなくなっていった。
実質活動していなかった関東連合だが、いわゆる現在、話題となっている関東連合はいったい、いつ誰が復活させたのだろうか。
最早、時代はチーマーであり暴走族の人数も減少していた。復活させたのは世田谷の上町、豪徳寺の付近の不良少年を中心とした「小次郎」である。70年代、関東連合結成当時の中心チームは「ブラックエンペラー」「マッドスペシャル」だったが、当時の関東連合の中心は「小次郎」「ブラックエンペラー」「鬼面党」「メデューサ」等である。
彼らは単独チームだけでなく大きな看板が欲しかった。それで、目をつけたのが関東連合の存在である。「うちは関東連合に属していただろ」と。従って「小次郎」などは当初は「関東連合上町小次郎」を名乗っていた。
そして、それを思いついて実行したのが、後に東京の不良少年の間ではカリスマ的存在となったA氏である。
整理すると、関東連合のメンバーはA氏のような40歳から30歳後半を上として下の年代は海老蔵事件で有名になった伊藤リオン氏の20代後半、また本も出版した石元太一氏の年代までを言うと思っている。
それ以降は関東連合ではなく、「関東連合の後輩」と称するのが正確だろう。また世田谷と杉並のメンバーで構成されているのも特徴的だ。といっても一枚岩ではなく、世田谷と杉並のメンバーでは微妙に意識の差があると感じられる。関東連合の象徴とも言うべきA氏は渋谷に目をつけた。
国道246号沿いであり世田谷から近いという事もあった。また本来は暴走族のテリトリーで言えば狂走連盟であるのだが、当時は渋谷を流していなかった。チーマーの武闘派も進んでいた。結果的に関東連合は渋谷の不良少年シーンを制圧するのだが、それは三軒茶屋、三宿を中心として起きた「三茶抗争」がターニングポイントだと僕は見ている。
いわゆる暴走族(関東連合)対チーマーの対決である。それは暴走族「三茶愚連隊」と渋谷のチームのいざこざが発端と言われている。
暴走族側はリーダーたち三人の頭文字をとって「3K」と言われた人物が中心となって、チーム側に苛烈な攻撃をしかけた。顔が分からなくなるほどボコボコにされたチーマーや暴走族が三軒茶屋、三宿の墓地に捨てられたり拉致されたりした。
チーマーはしかし、劣勢を立て直そうと武闘派だけで結成した「湖池屋」が反撃に出る。因みに湖池屋の由来はCMの「いけいけゴーゴー湖池屋、ポテトチップス」からきている。つまり、それほどイケイケのチームだという事だ。
だが結局、チーマーたちはセンター街に出る事はなくなり、暴走族側の勝ちとなる。やはり集団の喧嘩は結束力がモノを言う。地元の結束力で固まる暴走族と、色々な地区から来て集まったチーマーとは結束力に差があった。
結果、渋谷センター街は実質的に、関東連合が仕切る事になった。また、チーマー側を裏で動かしていた人物がいたのだが、先ほど述べた関東連合の象徴的存在A氏が少年院から出所してから、徹底的にヤキを入れられ、彼も「飛んで」しまう。
こうして、渋谷センター街は関東連合の支配下になった。
現に、以前関東連合幹部にインタビューした際、「他の地域は知りませんが渋谷の場合はチーマーのケツもちは暴走族なんです」と言っていた。
ただし、チーマーも依然として存在しており、有名なのはチーマー史上最大規模と言われた「TOP-J」である。が、実態としては関東連合がケツもちと見られている。このチームの頭もかつては「用賀喧嘩会」に属しており、用賀喧嘩会はチーマーから暴走族化していき、結果、関東連合系となる。「系」というのがポイントで例えば、海老蔵事件で名前が出た伊藤リオン氏の「宮前愚連隊」も本来は関東連合「系」である。70年代結成時、宮前愚連隊はなかったからだ。また、関東連合は世田谷中心という意識が一部ではあり、杉並の関東連合は傍流という見方もある。
また、俳優高岡蒼甫がブログで兄貴分と慕っていた、2008年西新宿で撲殺された金村氏の属していたチーム「新宿ジャックス」も関東連合系と見られている。
関東連合はしかし、次第にスタイルが暴走族からチーマーのようなお洒落な恰好をする人間も出てきた。反面、特攻服を着て、わざわざ電車の中で写真を撮ったり、ハチ公前やセンター街を歩いたりした。示威行為である。
関東連合幹部は「僕らは人数が少なかったのでパフォーマンスをするしかなかったんです」とも言う。しかし、その喧嘩は次第に過激化し相手の家に乗り込んで火をつける、負けた相手を裸にし、男同士で69させた写真を撮るといったものである。
こういった行動を取る事により、関東連合は怖いというイメージを植え付けた。僕も69写真を見せてもらったが、余りにエグくて当時、「実話ナックルズ」の編集長をしていたものの掲載するのを止めたほどである。
関東連合は渋谷の不良少年シーンを制してから、六本木に進出していくのだがそれはクラブを抑えた事が大きい。イベント狩り、スカウト狩りで関東連合は名をなしていく。
当時はスーパーフリー的全盛期だった。
「関東連合にはかなりイジメられました。僕らが女の子に声をかけている関東連合が『何やってんだ』と集まってくるんです」(当時のスカウト会社社員)
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