『烏城物語』と併せて読みたい市井の記録 岡長平『ぼっこう横丁』
#雑誌 #出版 #昼間たかしの「100人にしかわからない本千冊」
話の種にできそうな記事が満載だ。
■やはり岡山は奇人変人の産地だったのだ
そんな苦労をしながら手に入れたのが、岡長平『ぼっこう横丁』正・続である。
もとより、奇人変人しかいない岡山なのだが、この人物はなかなか興味深い。生まれは明治23(1890)年。当時、慶応大学を卒業しているというから、なかなかのエリートだ。本業では岡山電気軌道に勤めて市会議員にもなったが、昭和45(1970)年に死去するまで、岡山の郷土史の史料を集めに集めた。単に集めるだけでなく、人の話もたくさん記録した。著書は多いが、その中の一つである本書はまさに民衆史の史料。活躍していた年代からして、江戸時代末期のことを知っている人も存命だったろうから、明治・大正と日本が変わっていく中で、地方都市でどんな出来事があったのかが生き生きとした筆致で綴られている。奇人変人に、町の粋人、繁盛した店のこと、さまざまな事件のことも、克明に記録されている。冒頭でも触れた、森安なおやの『烏城物語』は、森安の記憶の中に残っていた、空襲で焼ける前の町が描かれているわけだが、この本を読めば、さらにそこで暮らしていた人々の姿が伝わってくるのだ。
正・続に分かれた本書。正篇では、岡山市の各地域の有職故実や事件、噂話を。続篇では、空襲の時のことを中心に戦後の混乱期の出来事が綴られている。
例えば、岡山のカフェーの第1号は、大正2年にできた「カフェー・パリー」という喫茶店兼酒場であるという項目では、女給の第1号は、お玉という人物で「はやく死んだが、美人でも利巧でも、才女でもなった。しかし、女給の岡山第1号なので、人気者だった」と記す。
万事がこんな具合で、だいたいすべて実名と人となりとを記しながら書かれている。とにかく、奇人の多いことといったら。
明治時代に、岡山で山陽英和学校(現在の山陽学園大学などの前身)の設立に関与した、中川横太郎なる人物がいた。この人物、学校の規模が大きくなったので資金が必要と、寄付金を集めて回ったがどうも芳しくない。そこで、この中川は新聞に自分の死亡記事を出稿して「香典ノ儀は、成ル可ク多額ニ願上候」と書いた。これは「中川の生葬礼」として、評判になったのだとか。
「ことり」が出た話もこれまた面白い。「ことり」は「子獲り」と書くそうで、西日本あたりでは、親が夕方になっても遊びに行って帰ってこない子どもをしかる時に、必ず出る言葉だ。なんでも、夕闇に紛れて子どもをさらって、軽業師などに売るらしい……。
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