日・仏アヴァンギャルド映画監督2人に映画オタクのミュージシャン、J・オルークが迫る
#映画 #インタビュー #洋画
グランドリュー それは映画の核心をつく論題でもあります。映画は、ある特定の瞬間において、自分自身といる手段でもあるわけです。たとえば、カメラで今、ここを撮るとします。さまざまな感情のバリエーションが存在し、可能性が果てしなくある。カメラでできる素晴らしいことというのは、すべては捉えられないけれど、一つの世界に、プロセスの中に入っていけることです。あのブランコのシーンの前に、足立さんの家の近くのお寺で撮影していました。その時まだ僕は、足立さんと一緒にいることの中に、自分の周囲の中に入っていくことができずにいました。足立さんに「撮影は終わりです」と言ったあと、奥さんと娘さんがやってきたので、一緒に小さな公園に行った。するとたちまちすべてが変わったんです。陽が沈みはじめて、光の加減が変わりつつあり、街に音楽(※17時の無線チャイム「夕焼け小焼け」)が流れてきて、足立さんと娘さんがブランコを漕いでいる、その中に私は入っていったのです。そして足立さんと一緒にいることも感じられた。足立さんは僕に、「どうしたらいいか、何を撮りたいか」など、いっさい訊かなかった。言葉は何も交わしませんでした。すなわち、映画を撮ることとは、自分がその時その場に、共にあることなのです。足立さんがどう感じていたかはわかりませんが……。
足立 ジョルジュ・バタイユはある時、通りを歩いていて意識を失った。すると目の前に、過去に自分が書いた哲学の書物や、美学的思想がすべて現れた。それと同じように、フィリップは僕がブランコのところで歌っているのを聞いて、とてもハッピーになったんだよ。とにかく、僕はシネマテークでの上映(※2010年10月~2011年2月、パリのシネマテーク・フランセーズでニコル・ブルネーズにより企画された足立正生の特集上映)には行けなかった。だから、フィリップとスカイプで話した。彼が「どんなドキュメンタリーにしましょうか」と訊くので、「そんなことは考えずに、ただ飛行機に乗ったときからデジタルカメラを頭にくくりつけてきて、帰りの飛行機がパリに着いたら外せばいい」と伝えた。でも彼には考えがあって、事前に何の会話もせず、いきなり僕の鼻毛と耳毛と眉毛と、飲んでる姿とタバコ吸ってる姿を撮りはじめるんだよ。
一同 (笑)
足立 そのあと映画論や美学についてのインタビューも一応してくるんだけど、本気でやってないなと感じる。でも、だんだん彼はやりたいことをやろうとしているんだって、わかってくるわけ。僕の映画には出ていいけど、知らない人の映画には出ない、と言っていた女房と娘が、ある日の撮影後に来てブランコに乗っていたら、フィリップの態度と目つきが変わって、「いけた!」って言うんだよね。翌朝「もう一回撮りたい」と電話が来た。「なんだ?」って聞いたら、今度は独り言を言えと。「俺、人生で一度も独り言を言ったことはないから断る」って言ったら、それなら吸う息、吐く息、いびきでもいいって。そう言って本人が眠りだすんだよ。その寝顔を見ながら、昨日「いけた!」って言ったその先をやるんだなって分かる。つまり、もっと僕自身に迫ったやり方をするぞってこと。今まで撮ったものをいったん全部バラバラにして、存在との関わりで自分が得た感性で編集したいってことが伝わってくる。それで寝顔を見ながら、僕もいろいろ言い出すわけ、人生初めての独り言を(笑)。案の定、彼が自分の感性で「これを撮ろう」と思って撮った映像と独り言を、自分のコメントできちっとまとめている。あそこまで裸にされたことがないから、恥ずかしいんだよね。
オルーク 特に独り言のところが?
足立 そうそう。だけどしょうがないじゃん。それはもう彼の感性に全部預けたわけだから。リスペクトできてるから預けたんだし。想像していたよりも、少し面白くできていてよかったと思ってる(笑)。
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