“最後の避難所”に身を寄せる、双葉町避難民へのしかかる“時間”の重み
#映画 #インタビュー #東日本大震災
――それは、非常に後味が悪いものでもありますね。
舩橋 はい。でも、“お気の毒な方々”と描くことが正しいことだと思えなかったんです。どうしてこんなことになってしまったのか、電気の生産者であった双葉の避難民と消費者であった自分たちとの対話を記録するように作品を作ろうと思ったんです。
■東電には「ありがとう」と言わなければならない
――撮影を進めるうちに、どんなことが見えてきましたか?
舩橋 加須と東京を行き来するということは、電気の生産者と消費者の間を行き来することでもあるんですが、地理的に距離が離れていることで、うまくリスクを分散させる不公平な日本のシステムというものが見えてきましたね。地方は地方で都合のいいように、東京は東京で都合のいいようなシステムが組まれてきたんです。地方には雇用や交付金などのお金が落ちてきます。これまで、双葉では農閑期である冬は出稼ぎに行かなければならなかったのですが、原発ができたことによって自分の町で生活できるようになりました。一方、東京では、地理的に距離があるので原子力のリスクを考えないで済む。節電したほうがいいのか、と感じなくて済むくらい、たくさん電気を使えるんです。こうやって双方を往復すると、原発のリスクは不均等に分散し、一部の人に犠牲を押しつけるシステムとなっていることが見えてきました。
――そのシステムに組み込まれてしまった双葉の避難民に触れる中で、印象に残っている言葉はありますか?
舩橋 「これまでは、東電におんぶにだっこで生きていた」と言う避難者がいました。かつて、双葉は「福島のチベット」と言われているくらい、過疎がひどく、貧乏な地域だったんです。東電がなければ、双葉町は存在できなかったかもしれない。今まで30年間お世話になって、東電には仕事もおカネももらってきたのだから、「ありがとう」と言うべきなんじゃないかと語る避難者がいました。
――報道には、なかなか取り上げられない声ですね。映画では、一時帰宅の様子も撮影されています。
舩橋 この時も、東電社員がかいがいしく世話をしていたのが印象的でした。4~5回にわたって一時帰宅を取材したんですが、ある日は土砂降りの天候。一時帰宅した住民は、ビニール袋にそれぞれの荷物を入れて帰ってくるんですが、荷物で両手はふさがっています。そこで、東電社員は避難者が濡れないように傘を差し、自分がびしょ濡れになりながら世話をしていたんです。会社が悪いことしたんだから、社員である自分たちがやらなきゃならないという、ある種の真剣さが伝わってきました。
やっぱり、東電に対する多くの避難者の姿勢は厳しいもので、彼らが避難所に来たら非難轟々になります。「東電の○○です」と挨拶しただけで「バカタレ」と怒号が飛んでいました。下々の社員は避難者の世話をしながら「すいません」と謝り続け、社長をはじめとする上層部の人々は姿を現さない。不公平だなと思いますよね。謝罪する人間はそんな下々の社員ではなく、もっと別にいるはずなんですけどね。
■延々と続く時間の積み重ね
――旧騎西高校には、現在でも180人(9月18日現在)あまりの方が生活されていますが、みなさんの雰囲気もだいぶ変わってきましたか?
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