震災後増殖した、“正義”を騙る浅はかな知識人や市民を疑え
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震災後増殖した、“正義”を騙る浅はかな知識人や市民を疑え – Business Journal(10月7日)
シリーズ企画「21世紀の神々」のひとりとして
紹介された。
東日本大震災から1年半がたつ。そうした中、ただ一人で震災前から福島に作られた原発を通した戦後社会論を記述し続け、昨年6月出版した『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)により一躍脚光を浴びることになった開沼博氏。
『「フクシマ」論』については過去のインタビューを参考にしていただきたいが、開沼氏はその後も地道に福島に通い続け、現地の人々の声を聞き、さまざまな媒体で評論、エッセー、ルポを発表し、対談を行ってきた。それら震災後の活動をまとめたのが、『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)だ。この本に託した思い、3.11以降の「日本の変わらなさ」などについて聞いた。
――『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』、早速話題になっているようですね。朝日新聞(9月27日朝刊)でも論壇ページで取り上げられていました。丸善に行っても、いい場所に平積みになっていましたよ。
開沼博氏(以下、開沼) はい、ありがとうございます。おかげさまで、既に多くの人に手に取っていただいているようです。
――今回の『フクシマの正義』は『「フクシマ」論』以来の単著ですね。この間の活動は、どのようなものでしたか?
開沼 昨年度は、共著・共編著など、複数の書籍を作るのに関わっていました。原発事故によって避難した方がどのような状況にあったのか、若手の社会学者の論文をまとめた『「原発避難」論』(明石書店)やワーキンググループのメンバーとして関わった、いわゆる民間事故調の報告書『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。あと、『地方の論理』(青土社)。これは前の福島県知事である佐藤栄佐久さんとの対話形式で、原発事故以前の福島が抱えた課題や、掲げられていた理念・政策をオーラルヒストリー的に聞き、まとめたものです。
――『地方の論理』は、「今後の日本のあり方」を福島の歴史から掘り起こそうとするというのがテーマでしたね。
開沼 その通りです。佐藤栄佐久さんは今から10年ほど前、福島県知事在任中に原子力政策に疑問を呈する施策を打っていた。2000年代前半からすでに、日本社会と原発の抱える課題と真正面から向き合っていました。ただ、『地方の論理』では、あえて原発の話をしませんでした。それは、「原発」の話そのものよりも、「原発についての政治」の、今から見れば、妥当な判断の前提条件の話のほうが重要だからです。
地方の首長が「原発に疑問を呈すること」は、10年前には「突飛なこと」でした。しかし、震災後、その前提は大きく変わり、今となっては彼の判断は「予言的なこと」となりました。では、なぜ震災前にそのような思い切った判断をできたのか。その政治の背景には、いかなる社会的背景や個人的な思想があったのか、解き明かしたかったんです。
――「古きをたずねて新しきを知る」的な……。
開沼 「福島のことを知ろう」とか言う人は腐るほどいるんですが、そこで目が向けられるのは「原発・放射線」に関することばかり。いやいや、「福島=原発・放射線」っていう認識で「福島のことを知ろう」とか言われても、それってここ1年のことにすぎないですから、と。っていうか他の地域にだって「原発・放射線」の問題はある。本当に解決すべき課題やその解決策の芽は、いくら「福島=原発・放射線」を掘っても、ごく一部しか出てこないんです。
――『地方の論理』の中では「中央で流通する言葉」と「実際に福島で起こっていること」との間にギャップがあると書かれていますが、震災の前も後も、その状況には変化がないということですね。
開沼 そうです。じゃあ、そのギャップを埋めて、「実際に福島で起こっていること」に、いかに向き合っていくべきか考えようと。そこで、仮に「福島=震災間際までの状況」として、そこにあった「3.11なき福島の姿」を掘り出してみようというのが、ひとつのコンセプトです。
例えばそれは、開発主義から自然を生かした地域づくりへの転換、人口減少時代を見越した地域医療・福祉の再編、公的イベントを通したボランティアはじめ市民セクターの活用の追求など、ポスト「経済成長期」にある日本社会が抱える課題への極めて実践的な対応を生み出す、彼のある種の「保守思想」であり、明治以来の地域開発を支えてきた「中央の論理」による弊害を打ち消す「地方の論理」と呼べるものでした。
そして、その福島が震災前に行ってきた、さまざまな施策の背景にあった思想に迫ることで、ひとつの「理念型(モデル)」を洗い出すことを目指しました。その中にこそ、歴史的な災害の渦中に置かれた「福島」はもちろんですが、それ以上に、「日本全体」の今後の姿を構想する上で必要な指針が見えるからです。
――福島のことを本当の意味で考えることが、日本の未来にもつながると。
開沼 『地方の論理』の中でも触れていますが、徹底的に過去の事実の記述にこだわりながら、状況を整理し、あるべき社会の姿を提示していくのが、いま学問にできることと思っています。その時点の政局や、お祭り騒ぎの世相に振り回されたり、あるいは上滑りした未来を語ってのぼせあがって、誰かを振り回そうとしたりすることではなく。
――なるほど。震災後、学問や「知識人」への信頼が一気に失われた中、『地方の論理』に書かれたことでいうと、「学問に向かって『お前はただの過去でしかない』と叫べ」と語っているところですね。『「フクシマ」論』はあくまで震災前に書き終わっていたものであり、3.11以降の「フクシマ」の考え方のベースとなるものでした。一方、『地方の論理』は、一見地味な「福島の現代史・オーラルヒストリー」ですが、『「フクシマ」論』で固めたベースの先に、震災後の日本社会へのひとつの提言をしています。
開沼 前者は「学術論文」、後者は「対話本」と、形式としては全く違ったものですが、内容的にはこの2冊は、震災後「フクシマ」という世界的に勝手気ままに漂流し、さまざまな思惑を持って利用される表象をいかに捉えるべきか、それを捉えた時に現実の福島や日本社会の今後のあり方はいかにありうるのか考えていく素材としての、「基礎編」「応用編」ともいえるものだと考えています。
●致命的な「専門家/非専門家の分断状況」
――そして、いよいよ、『フクシマの正義』の刊行に至ったと。この本は、さらに実践的な問題意識のもとで書かれているように思います。「福島を守れ」とか「福島を見ろ」とかいう「『フクシマ』を騙る正義」の暴走や上滑りを捉えながら、福島や原発の問題にとどまらない、広く現代社会の抱える問題に迫っていく。今でも福島や原発に興味がある人にはもちろんですが、興味がない人、なくなった人にとっても重要な内容ですね。
開沼 そうですね。3.11以後に少なからぬ人が感じている不快感・違和感がいかなるところから生まれているか。震災後、原発について、経済成長について、メディアのあり方について等々、人によって立場の違いが浮き彫りになりましたが、どんな立場を取ろうとも、何らかの不満はある。では、その根底にあるメカニズムがなんなのか考えるヒントになればと思います。
――『フクシマの正義』は、ご自身で書かれている通り「学術論文ではない」わけですね。かといって単純な「評論集」でもない。ジャーナリストが書くような本格的なルポが何本も入っていたり、ある種、社会学者の著作としては、アクロバティックな構成になっていると思います。簡単に、この書籍の形式について説明いただけますか?
開沼 3つのパートに分かれています。1つ目が「評論・エッセー」、2つ目が「ルポ」、3つ目が「対談集」です。いずれも、震災直後からこれまで、私がさまざまな場所で書いたり話したりしてきた文章で、それを再構成したものです。まず、このような体裁を取った一番大きな理由は、「わかりやすくしたかった」からです。もう少し細かくいうと、現在、社会に存在する、「事態がいかにあるのか」「いかにそれを認識すべきか」という、ある種の存在論・認識論的なレベルでの溝を埋めていく、「ブリッジ」していく議論が必要だと思ったからです。
『「フクシマ」論』について頂いた感想には「学術論文を読み慣れないから、わかりにくい」というものが最も多かったんですが、その一方でアマゾンレビューと「フクシマ論 感想」とか「フクシマ論 批判」とかで検索して上位に出てきたブログしか読んでいないことがバレバレの感想や、そもそもそれすら読んでいないであろう思い込みなど、大体同じようなパターンの話を至るところで聞かされました。肯定的であるにせよ、否定的であるにせよ、です。
――修士論文がベースにあり、400ページ超の大作。読むのに根気がいる本であるのは確かですよね。
開沼 ところが、研究者、人文書系などの編集者、ジャーナリズムに携わる方など、『「フクシマ」論』といろんな面で接点を持つジャンルの文章を読み慣れている方からの感想は、むしろ逆が多かったんです。「こんな一般書みたいに、シンプルでスラスラ読める論文はなかなかない」、(実際はほとんどしていないが)「読みやすいように、だいぶ加筆修正したんですか?」という反応が多かったりもしました。それは、単に私がうまくも下手でもない、オーソドックスな書き方をしているからなわけですが。
――その感想もわかります。
開沼 で、ここに現れるような、広い意味での専門家/非専門家の分断状況、それが生み出す非専門家の「私は・俺はわかった幻想」と専門家の「こんなことわかって当然だろ前提」こそが、まさに現在の混乱の背景にあるように私は思っています。非専門家は「わからない」のだけれども、専門家らしき人が「安全だ」と言っているのを信じて、安心する。あるいは逆に、「危険だ」と言っている人を信じて、バラバラになりそうな不安な気持ちをひとつの方向に向けて気分を落ち着ける。普段高度な専門家の間でされている話が、非専門家にはわからないのは当然のことです。にもかかわらず、非専門家が「わからない」と言わずに、「私は・俺はわかった」かのように語り合う状況がある。
本来「わからないけれども、私はこのようなところまでは考えている」と言明すべきところを、無理に「わからないけれども」を飛ばしてしまうことで、「私はこう考えている。それにそぐわぬ議論はすべて受け付けない」と強弁するような状況ができている。
その背景に無意識的にある言葉を補えば、「(わからないけど、あの人がこう考えているから)私はこう考えている(ことにしておく)。それにそぐわぬ議論はすべて受け付けない」というような危うい認識であるのにもかかわらず。現代が情報技術の発展によって、例えばアマゾンレビューを見て、ググって、あるいはツイッターでリツイートして、「知ったかぶり」をすることが容易な社会になっていることも一つ背景にあるでしょう。
――確かにそうした傾向は、さまざまな議論に見られるようになったと思います。
開沼 誤解を避けたいのは、「わからない」非専門家は何も語ってはいけない、考えてはいけない、という話では全くありません。言いたいのはむしろ逆。専門家と非専門家が語る「ブリッジ」が必要な状況を意識し、専門家も非専門家も双方で「ブリッジ」を構築する努力、そのためのコミュニケーションを常に志向し続ける必要があるということです。
現状は、そのような志向とは逆の方向に向かっている。そのような「わからないけども」を飛ばしてしまう中で「自分は正しい」という主張が飛び交う構造は、非専門家が自らの思考停止に開き直る方便を生み続けるし、専門家が「もうこんなの相手にしてらんないわ」とうんざりして、その議論にコミットすることをあきらめる結果を作り続ける。
――そのような膠着状態を崩すために「わかりやすくしたかった」ということですね。確かに『フクシマの正義』はわかりやすいと思います。
開沼 「わかりやすくしたかった」という意味は2つあって、ひとつは単純に普段「学術」的な文章や「論壇」的な文章を読み慣れていない方にも読んでいただけるような言葉や(エッセイ・ルポ・対談という)形式で書いた原稿を集めたということ、もうひとつは、こちらが本書の意図そのものですが、複雑でどのように扱っていいかわからないさまざまな問題を「なるほど、こう考えればいいのか」「こう見れば、混乱の理由がわかる」と理解するツールを提供したかったということです。
――確かに、最初の「評論・エッセー」のパートだけでなく、それを読んだ上で「ルポ」「対談集」を読むと、『「フクシマ」論』の背景やそれをどう理解するか、あるいは3・11後の社会を考える上で、その思考の枠組みをいかに使っていくか、より立体的に見えてきます。では、これもあとがきに書かれていましたが、なぜ『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』というタイトルになったのか、簡単に教えてもらえますか?
開沼 メインタイトルの「フクシマの正義」の部分については、先ほどおっしゃっていただいた通り、「フクシマ」を語ったり、騙ったりしながら声高に唱えられる「正義」とされるものの不確かさや暴走っぷりを問うということが、本書をつらぬくひとつの筋になるのではないかということ。これは、原稿を並べ替えて整えて、すべてを通して読んだ上で考えた後付けです。
あと、「「日本の変わらなさ」との闘い」の部分について。これは、あとがきにも書いていない話をしましょう。これ、本が刷り上がってきてから気づいたことなんですがね。
例えば、ここ1カ月ほどの間に出た本のタイトルを挙げてみましょう。湯浅誠さんの本が、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)というタイトルなんですね。與那覇潤さんと池田信夫さんの本は、『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』(PHP研究所)。小熊英二さんの本は『社会を変えるには』(講談社)という。他にも細かくはあるんですが、とりあえずこれだけにしましょう。
これらのタイトルには、「日本社会」と、それが「変わる/変わらない」という2つの要素が共通して入っている。「変わらぬ日本社会」ブームみたいなものが、そこにはあるらしい。つまり、震災を経てすら変わらない日本への疑問、不満感、やりきれなさみたいなものが……大衆的なレベルでもそうだし、知識人のレベルでも、大きな無意識としてたまっているように見えるわけです。
で、当然「「日本の変わらなさ」との闘い」っていうタイトルも、同じものとして考えられるっぽい。これを決めるとき、編集者の方と侃々諤々、議論したんですが、偶然にも、最終的に「日本の変わらなさ」がタイトルに入った。
『「フクシマ」論』の表紙にも書いているんですが、私は「3.11を経ても、社会の根底にあるものは何も変わっていない」という旨を、震災直後から1年通して言い続けてきました。最初は「もうこんな大変なことがあったんだから、変わるに決まっているじゃないか、なに言ってんだこいつは」というリアクションばかりでした。1年たってみたら「どうやら、あんだけのことあったけど、全然変わっていないよね」という感覚が無意識的にであるにせよ醸成されているらしい。じゃあ、「それはなんで? どうすればいいの?」という問いにどう向き合うか。そのやり方はいろいろあるけれども、私は、「フクシマ」を語る・騙る「正義」とされているらしいものの在りどころを考えながら、そこに向き合いたい。それがタイトルに込められた意味です。
――「変わらぬ日本社会」ブームは確かにそうですね。タイトルを決める時というのは「言葉にできていないけど、みんな思っていることを言い当ててやろう」というところがありますしね。そして、『フクシマの正義』の中では、地方と中央の関係や支配のまなざしといった『「フクシマ」論』で描いたような、ある意味で地方を犠牲にして戦後日本が成長してきたというテーマを考察するコンセプトを呼び出しながら、新たな視点からの議論が深められていきます。
開沼 そうですね。今でこそ、「原発については前から関心があり、問題意識を高く持っていた」かのような顔をする人が多いかもしれませんが、事実として3.11以前に福島に原発があり、そこから東京へ電力が送られていることすら知らなかった人が大多数でした。そうした人々が少しでも、例えばいま出していただいたようなある種の存在論・認識論的なレベルでの理解のフレームワークに触れて、「社会の変わらなさ」を考え、議論するきっかけにしていただければと思います。
●脱原発は本当に加速しているのか?
――現状の東京の人々の様子を見ていると、3.11以降出てきた、脱原発運動に励む人や、子どもに放射能の影響が及ばないようにと熱心に情報収集をする親御さんたちがいる一方、ニュースや大方の人の普段の会話の中に、原発事故や震災についての話題が出てくることはほとんどなくなっていて、すでに3.11が忘れられてきているという印象があります。開沼さんは『「フクシマ」論』の中で、「時が経てば原発の問題は忘れられてしまう」と書かれていましたが、現時点でのこのような状況は予想されていたことでしょうか?
開沼 予想する仕事をしているわけではないですが、予想通りです。予想通りという意味では、先ほども少し触れたように、震災直後は「今回の震災を機に、人々の価値観などが変わる」と興奮しながら盛んに主張する、中央の「知識人」が沸き上がっていましたが、結局はテンションが上がっちゃったがゆえの一時的なノリだったことが露呈してしまったのも予想通りです。『フクシマの正義』に書いたエピソードで言えば、とある中央の知識人が、震災直後、「原発は重厚長大型のプラント産業だから、完全に衰退期にあり、この事故を機に世界的に脱原発の動きが広まるだろう」と「世界の未来を大胆予想」していたのを見ました。
しかし、中国、インドはじめ多くの新興国は、3.11を経ても原発新設姿勢を崩さないどころか、むしろ加速しているように見えるところすらある。先進国を見ても、「独・伊は脱原発じゃないか」とやたら持ち上げる傾向もありますが、ほかではそんな動きはほとんどない。米国ではスリーマイル島事故によって凍結されていた原発新設許可が34年ぶりに出てすらいる。そういった知識人のもつ「こうあるべき」という理想・理念と、「こうである」という現実を区別できない幼稚さ、浅はかさ自体は震災前からあったものなんでしょうが、震災後もそれは是正されず、その一方で3.11の忘却が進んでいる。まず、たいして勉強もせず、調査もしていないのに「こうあるべき」と言う前に、「こうである」という事実を見る必要がある。
――その姿勢は『フクシマの正義』の中でも一貫していますね。そして、「こうあるべき」という理想・理念を語りたいロマンチストからは、「現状を肯定するのか」とか因縁を付けられると。
開沼 そうですね。別に、今の状況を肯定したいわけではありませんが、「こうあるべき」がないと不安で仕方ない、必死すぎる人が「知識人」にもそうでない人にも多い。「橋下徹現象」的なカリスマ待望論と「脱原発のうねり」や「在日外国人の特権を許さない」的な巨悪でっち上げ論は、同じ「こうあるべき切望」の表裏にある。いずれも圧倒的な「こうあるべき」を打ち立てる上での媒介的表象を求めているわけです。
冒頭の話に戻りますが、よくわかりもしない状態で「こうあるべき」も何も言えない。よくわかりもしないのに「CO2削減に役立つエコなエネルギーとして原子力があるべき」と言われて「へー、なんか良い感じだね」と受け入れた結果が現状なのにもかかわらず、です。「こうあるべき」を無理に出そうとするから、議論に無理が生じる。例えば、事実として「こうである」ということと、理念として「こうであるべき」と思うことを混同し始める。そのことにより、見失うものや不可能になるコミュニケーションの大きさを自覚すべきです。
――いまも週の半分以上は福島やさまざまな現場に通い、一方で文章を発表したり講演をしたりしながらさまざまな人々の声を聞いている開沼さん自身が、『フクシマの正義』の出版に当たり率直に感じていることを最後にお聞かせください。
開沼 講演したりしながら印象に残るのは、不安に満ちた「じゃあ、どうすればいいんですか、教えてください!」という声の多さ。「てめぇで考えろ」としか思わない。いや、「どうすればいいのか考えよう」というのはまっとうな話ですが、何のためらいもなくそう聞いてくるような人ほど、その答えを自分の中からひねり出そうと努力していない。ろくに調べてないし、本も読んできていない。そんなことばかりしているから、頭いい人にうまいこと言いくるめられておいしくない思いすることになる。それでまた「自分は被害者だー」とか騒ぎながら、また言いくるめられて、おいしくない思いをして……というループに陥る。現状において、「フクシマ」や「日本の未来」について「こうであるべき」と一概に言い切ることは誰にもできない。言い切っている人がいたらペテン師です。
本書のタイトルに引き付けながら、より具体的に言えば、「正義」を騙る者がいたら疑う必要がある。社会は誰かが脳内ででっち上げた、一面的な「正義」で変わるほど単純なものではない。むしろ、その「正義」こそが「社会の変わらなさ」の原因をより強固にしていっているのかもしれない。
絶対的な「正義」や「社会の変え方」などない。社会の現実の重層性・多様性を常に認識し、そのあり方を捉える努力をしなければ、必ず何かを見落としてしまいます。その問題について学ぶ気がないのならば、中途半端にその問題に関わるのはやめたらいい。「自分は世界を見渡し、すべてを相対化している」と勘違いし、例えば、したり顔で5分に1回はツイッターで「天下国家」を憂いながら呟いちゃうような評論家ワナビー生活は、不安から目をそらせるから楽しくて気持ちが良いかもしれません。
しかし、そんなことする前に、そして「社会を変えたい」という前に、やれることは腐るほどある。自分の中にある不安をこそ見つめ直さないと、仮に「原発が世界から消え」ても、「在日外国人を叩きだし」ても、「民主党政権が、野田内閣がつぶれ」ても、「維新の会が政権奪取し」ても、「日本が再度経済成長を始め」ても、自分自身は幸せにはならない。どころか、むしろ、自分の不安から目をそらすための「道具」がなくなったがゆえに、新たな「道具」を見つけるまで、より不幸になるんです。
私は今後も、ある面で人類が経験したことのない特異な社会現象が生じている3.11以後の状況を前に、淡々と学び、言葉にしていく仕事を続けていきたいと思っています。それは日本の戦後社会や近代化そのものを考えることにもつながります。原発問題に限らず、現代社会が抱える困難な問題を考えていきたいです。
(構成=本多カツヒロ)
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