巨大な“ケガレ”の一塊から被災者個々の声を浮き彫りにする、インタビュー集『ガレキ』
#本 #原発 #東日本大震災 #原発事故
本書の編集時点で、陸前高田市内の死者は1,555人、行方不明者232人。その中には、戸羽市長の愛妻も含まれている。家族を失い、町の舵取りに追われる中で我が子たちへのケアを満足にできない不甲斐なさを滲ませる戸羽市長の言葉は、いまだ何も決着していない被災地の日々を、読む者に強く認識させる。共感する、などと軽々に口にできるものではない。けれども、これらインタビューでそれぞれの立場から語られる言葉には、せめて敏感でありたい。
しかし、これが震災がれき問題として括られてしまうとき、被災地の息遣いへの配慮は失われ、忌避すべき巨大な一塊として扱われる。がれき受け入れの是非を問うことであったはずの論点が見失われ、判断基準が不明瞭なまま拒絶の意識ばかりが際立ち、ついにはその地で生活する人々をも否定してしまうような言葉が拡大してゆく。
言葉を発する側に被災地の人々そのものに向けているつもりなどなくとも、被災地に暮らす人々にとっては自身を否定する声として突き刺さってくるのだ。
本書に収められたインタビューで繰り返し映し出されるのは、そうした否定の声に傷つく人々の姿である。
拒絶され無配慮な言葉を投げられる震災がれきは、被災地の日々の暮らしのすぐ横に存在する。何よりがれきは彼らにとって、自分たちの暮らしの礎となる我が家だったものなのだ。「それ(がれき)を放射能で汚れたとか言われると、私たちが汚れているみたいな感じがする」という人々の声に、受け手はどれほどの想像力を働かせられるだろうか。
時に脊髄反射的ともいえる震災がれきへの拒否反応の根底に、著者は「ケガレ」の意識を読み取る。個人に明確な判断基準があるわけではなく、抽象的な感覚による不浄の意識が、科学的な根拠よりも先行して震災がれきへのイメージを生み出してしまう。間接的で確度の定かでない大量の情報のみによって作られていったケガレのイメージはそのまま肥大し、議論の入り込む余地が限りなく乏しい禁忌の意識を強固にしてゆく。この意識に多くの人たちが縛られていることにすら気がついていない。
著者が本書で震災がれきを「ガレキ」とカタカナ表記しているのは、がれき広域処理問題が本質からはぐれてゆく中で、そのようなケガレのニュアンスが、がれきという言葉に含まれるようになっていったという問題意識に基づいている。ケガレの意識に基づいた過剰な禁忌への疑念、そして再考を促すのが本書『ガレキ』である。
もっとも、著者はこの本を通じて、がれき広域処理の受け入れ賛成あるいは反対いずれかを促そうとしているわけではない。むしろ、単純化された回答を即座に出すような振る舞いから離れ、丁寧な議論をおこすための材料となる「当事者の記録」として扱われることこそが、この本の意図するところだろう。
そして何よりも、本書を通じ、過去の話題になってしまったかのような震災がれき広域処理について、まだ先に進むには多大な課題が残されている現在形の問題としてあらためて考えるためのきっかけとしたい。
(香月孝史/http://katzki.blog65.fc2.com/)
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