巨大な“ケガレ”の一塊から被災者個々の声を浮き彫りにする、インタビュー集『ガレキ』
#本 #原発 #東日本大震災 #原発事故
大飯原発再稼働への是非が問われた2012年の夏。最も厳しい需給が見込まれた関西でも計画停電は回避されたが、再稼働が妥当であったか否かについての検討はまだ入り口の段階だ。
今年の春以降、その大飯原発再稼働に関わる議論が紛糾する中で、後景に押しやられてしまったトピックがある。それが、丸山佑介著『ガレキ』(ワニブックス)が再提起する、震災がれき広域処理の問題である。
2011年11月に東京都の石原慎太郎都知事が震災がれきの広域処理に反対する声に対して、「(放射線量などを)測ってなんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と発言して賛否の声が巻き起こってから、今年5月に北九州市で起きた受け入れ反対の抗議騒動までの約200日間を本書は「ガレキ問題」と捉え、何ひとつ過去の問題になどなっていない震災がれきについて、再度目を向けることを促す。
『ガレキ』は東北各地の首長や元原発作業員、福島県で震災を経験した広域処理反対派市民など、被災地に暮らす人々を含めた多くのインタビューおよびルポルタージュで構成されている。原発再稼働問題の陰で、検証や議論が尽くされないままに世間的なトピックとしては収束してしまったように見える、がれき広域処理の問題を考え直すための記録となっている。
がれき広域処理問題が、受け入れ賛成か反対かという単純な二択に収斂してゆく中で忘れ去られがちになっているもので、著者が忘れるべきでないと強調したのは、膨大な量のがれきがただの廃棄物ではなく、人々の財産であったもの、日常に在ったことを思い起こさせる具体的な品々であるということだ。遠目には廃材と映るものが、近づいてみれば子どものおもちゃであり、洋服であり、家具や本のかけらである。
また、それは平穏な日常の記憶であると同時に、悲惨な大災害の爪痕でもある。岩手県陸前高田市の戸羽太市長は、目の前に取り残されているがれきはもともと市民の財産であると同時に、「自分の子どもを轢き殺した車が家の玄関に置いてあるようなもの」でもあると語る。かけがえのない日々の面影と、2011年3月11日の痛ましい記憶とが表裏一体になっている。震災がれきは、そんな複雑さをはらむものである。
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